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2017年5月23日 (火)

信仰の姿

 「トマさん祈りの部屋」のトマさんの話しにはいつも教えられます。自分の目が見えるように、耳が聞こえるようになった気分です(TomaPさんのブログではありません。お間違えの無いように)。

 今日読んだのは大分教会でのカテキズムの勉強会での話です。題は『自由と道徳』とありますが、自由と信仰のお話です。

 以下その話の抜粋

人間は善と悪、どちらでも選択できる自由が与えられています。・・・信仰は個人の自由から導き出されます。だから、自由の考え方が違えば、同じ「信仰」という言葉を用いても、中身は正反対になることもあります。・・・それが信仰のあり方にも現れています。神を信じて祈りますが、祈りの中身は、自分の願い(欲望)が叶うことだけです。聞いてもらえなければ、別の神を探して願います。こうして、自分に都合の良い神を信仰することになります。その典型が「ご利益(りやく)」信仰です。・・・最近増えているのが、社会生活(仕事や人付き合い)に疲れ、そこから逃げ出して自分にとって居心地がいい場所として宗教に頼るケースです。苦しみから逃げ、「癒し」だけを求めて信仰に入るのです。信仰が自分中心になっています。それは無責任でセンチメンタルな信仰です。

 キリスト教的な自由とは、自分勝手でわがままな自由ではありません。自由とは『選択できること』が前提ですが、選択が自由の本質ではありません。自由の本質は「自分から善を選択すること」です。・・・選択自体に価値が有るなら、選んだ後は「選べない」ので不自由になります。しかしそうではなく、幸せになります。それは選んだ善を愛し続けるからです。「愛する」とは、「善を連続して選び続けている状態」です。

 このような自由から生まれる信仰は、最高の善である神を選び、愛することです。自分が神の望みに応えて変わっていく努力をします。・・・その結果、信仰を通して「ゆるすこと」「仕えること」「苦しみを受け入れること」ひいては「自分の望みを捨てて、神に従うこと」になっていきます。苦しみから逃げるのではなく、乗り越えます。悲しみがあるのに、心に平和が戻ります。これこそが真の信仰の姿です。(2017/04/08 大分教会カテキズム勉強会「自由と道徳」より)

 洗礼を受けてもすぐに教会から離れてしまう人の原因の一つが、何を求めて信仰に入ったかではないでしょうか。「癒し」だけをもとめて洗礼を受け、苦しみや悲しみを乗り越えることができないとしたら・・・。

17最高の善である神 主イエズス・キリスト