義務ではなく恵み
カトリックの洗礼を受けても教会を離れてしまうだけでなく教会に対して反感を持ってしまう人もいます。原因は様々でしょう。人間関係、司祭への不信感、神の存在そのものへの疑問等々。
しかしその原因の多くは誤解と知識不足(教会のカテキズムをよく知らない)からのような気がします。誤解はよくあります。特に外国人の司祭とのコミュニケーションは相手の日本語が上手くない時には「伝わっていないかもしれない」「ああ言われたけれど、きっとこういう意味だろう」と、こちらもそれを考慮します。しかし相手の日本語が達者だとつい油断してしまいます。日本語の複雑な言い回しやニュアンスは正しく通じていないこともあります。またTVのお笑い番組等で、私たちは普段絶対に使わないような言葉(悪い・汚い・バカにする言葉)を使って皆が笑うと、言ってもいい言葉だと思い自分も使ってしまいます。言われた相手は怒ってしまうこともあります。冗談のつもりで言っても通じません。
もう一つが知識不足です。「よく信仰に知識はいらない」と言う人がいますが、それは間違いです。自分が信じているものがなにかもわからずに信じることはできないでしょう。キリストとは?聖書とは?祈りとは?罪とは?愛とは?知らないのに何を信じるのでしょう。自分の信じるものが不確かなものならそれらを簡単に捨てるでしょう。しかし信じるものが確かならきっと離さないと思います。だから、洗礼・初聖体・堅信の前には特別に勉強します。これがいい加減だと・・・。
知識不足に、自分で自分の理想の神を作ってしまうことがあります。ですから司祭(教会)から自分の思う神と違うことを言われると、司祭(教会)の教える神は間違っている、そんな神はいない、と思ってしまいます。
また、ごミサに与る、ゆるしの秘跡を受ける、朝晩祈る、毎日聖書を読む、十戒を守る、維持費を払う等々、これらを義務だと思っていませんか?義務だから守らなければいけないと。義務と思っていると不平や不満でいっぱいになり、教会を離れる口実にしてしまいます。
実はそれらは全てお恵みです。義務だからしなければならないのではありません。私たちはこれら沢山のお恵みをもらっているのです。特別な現存の形=ご聖体によって私たちはキリストと共に生きることができます。私たちは罪を赦してもらえます。主と共に過ごし話すことができます。キリストが何を話し、私たちに何を教えたかったのか知ることができます。悪から遠ざかることができます。教会を助けることができます。こんなにたくさんのお恵みをもらっているのに、どうしてそれらを手放すことができますか?
人間関係が原因ならしばらく別の教会へ行けばよいでしょう。疑問、不満があるのなら司祭たちにどんどん質問して納得するまで話せばよいでしょう。洗礼の恵みを受けたあなたは特別です。キリストはいつもあなたを待っておられます。