« 2014年10月 | メイン | 2014年12月 »

2014年11月

2014年11月25日 (火)

聖体拝領の方法に関する指針

 『日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針』が発行されました。今月30日待降節第一主日から施行されます。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/20141130.pdf

例えば

  聖体を口で受ける場合、・・・奉仕者が拝領者の口の下に添える拝領用の受け皿は、ホスティアまたはそのかけらの一部が落下する危険を避けるために維持されることとする。

 聖体を御血に浸して拝領する場合・・・司祭は聖体を取り、自分の脇に立つ奉仕者が持つカリスの中の御血にその一部を浸し、それを拝領者に示しながらキリストの御からだと御血と言う。このとき、奉仕者は拝領者の口の下に拝領用の受け皿を添えることとする。

 今まで私の教会では受け皿を使っていませんでした。日本では使っていない教会がほとんどです。両形態による拝領ではご聖体を御血に浸してから「キリストの御体と御血」と言うのが自然でしょう。次のごミサからはすべての教会で変わると思います。でも私の教会に受け皿はあったかな?

Frzs_blog 受け皿を使いましょう(写真:Fr.Zのブログより)

2014年11月24日 (月)

裁くことと諭すこと

 「他人を裁いてはならない」とよく言われます。フランシスコ教皇様も「私は他人を裁きたくはない」とおっしゃっています。

 本人にその人の間違いについて話すとすぐに「他人を裁いている」と言う人がいます。でもそれは裁いているのでしょうか。その人の誤り(悪)に気づかせてあげるのは裁くのではなくて諭しているのでは。他人を裁くとは「あなたは地獄に行きます」とか「あなたはだいじょうぶ、天国です」と神様のかわりに決めてしまうことではないでしょうか。

 2009年8月2日聖ビアンネ没後150周年記念ミサで東京の岡田大司教様が話された説教の一部を紹介します。諭すことについて話されています。

 ・・・・・司祭には、見張りという役目がある。先ほど読まれたエゼキエルの預言(エゼキエル3・16-21)では、「警告しなさい」というメッセージが与えられています。悪人を諭し、悪人に警告を与えるのが牧者の役目です。それを怠った場合、その悪人が自分の罪のために死ぬとしても、その悪人に対して警告しなかった者もその責任を問われるのだと。その人は自分が悪くて罰を受けるのはやむを得ないとしても、その人に警告する、さとしを与える、そういう役割があって、その役割を果たさなかった者もそのために責任を問われるということを言っています。これは恐ろしいことです。わたしたちはあまり人に警告したり注意したりするということはしたくないですね。相手が嫌がることを言いたくない。でも、そうしないと、しなかったことで責任を問われるということです。そういう任務が司祭にある。勿論、司教にはもっとあるということで、辛いものがございます。・・・・・

Photo

 そう、司祭や司教様方には大変な役務があります。でもこれも司牧です。私たちは教えてもらうことを望んでいます。間違いや悪いことを指摘され改めることを望んでいます。だって誰でもキリストを信じていれば、キリストの望む生き方をしたいから。自分の過ちや間違いに気づかせてくれる牧者を望みます。「そのままのあなたでいいんだよ」なんて言葉は少なくとも私は望みません。

2014年11月23日 (日)

王であるキリスト

 今日は「王であるキリスト」の祭日です。第一次世界大戦後、世の中は平和を脅かす出来事が多く起きました。この事を憂いた当時の教皇ピオ11世はキリストが社会の王として人々を導いてくださるようにこの日を定めました。しかし人々は回心しなかったようですね。その後第二次世界大戦へと進んでしまいました。

 今も当時と同じです。もっと悪い状態かもしれません。経済のグローバル化や拝金主義によって貧富の格差は広がるばかり。差別も無くなりません。それに不満を持つ若者は暴力で解決しようと、過激派に参加してテロに走る。悪の連鎖がどんどん広がっています。

 平和は私たちが築きあげねばなりません。キリストは何と教えているのかもう一度考えてみる日にしましょう。

Photo

2014年11月20日 (木)

『神は死んだのか』

 もうすぐ上映が開始されるアメリカ映画。久しぶりに観てみたいと思ったアメリカの作品です。『神は死んだのか』タイトルからして私をぐっと引きつけました。

 バイオレンスと死体の数や銃の弾の数を競うような映画ばかりが目立つアメリカの作品の中で久しぶりに知的な映画に出会えました。楽しみです。

Photo

県立大隅広域公園

 昨日大隅広域公園にも寄りました。ここは初めて。広くてきれいで、ゴーカートや遊具もあり家族連れにピッタリの所です。きっと土日は鹿屋市の子どもたちで賑わうのでしょう。昨日は平日だったので人はほとんどいなくて静かでした。

 ここでお弁当を食べて、写真を撮ってもらいたがっている龍と蛇をパチリ。ぐりぶーも花の中でポーズをとっているのでパチリ。

Cimg5020

Cimg5021

Cimg5029_2

2014年11月19日 (水)

吾平山上陵

 良いお天気に誘われて大隅半島へ。鹿屋市の近くの吾平山上陵へ行ってきました。

Cimg5033

 吾平山上陵は神武天皇の父、天津日高日子波限建鵜草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)と母の玉依姫(タマヨリビメ)の御陵(みはか)です。そして「小伊勢神宮」と言われているそうです。約500メートル程参道を進むと鳥居が見えてきますが、川の向こう側(鳥居の所から)は「聖域」なので細い橋は渡れません。

Cimg5042_2

 「聖域」と言えば昔は教会のなかにも聖域がありました。そう、祭壇です。祭壇には誰でも入れませんでした。ところが今では信徒なら誰でも祭壇に上がっています。しかしロシア・ギリシャ正教会には今でも「聖域」があり、しっかり守っています。

 またお寺や神社で教えられることがあります。それは子どもたちの行儀が良い事です。仏様や神様の前では行儀よくすることをお坊さんや宮司・神主さんからきちんと教えられています。行儀よくすると言うことは仏様や神様への尊敬の心を形として表すことですね。

Cimg5039 澄みきった川の水・・・上の方に2匹の魚が泳いでいます。

  肝心な吾平山上陵に話を戻しましょう。ここは本当に静かです。流れる川はとても澄んでいて魚の泳ぐ姿が見えます。紅葉はまだでしたが12月になるときっと紅葉した葉と緑のままの葉のコントラストが美しいでしょう。

Cimg5037_2 参道の途中の橋

 帰りに「道の駅たるみず」に寄り、足湯に浸かりました。雄大な桜島を見ながらの源泉かけ流しの足湯・・・気持ち良さが2倍2倍~v(*^ー^*)v 

Cimg5056_2 源泉かけ流しの足湯

2014年11月16日 (日)

家庭生活と修道生活

 理想においては、家庭生活と修道生活に原則的な差異はなく、家庭生活というのは修道院みたいなものだと考えられる。どちらにもそれぞれの規則があり、それぞれに聖なるもの、聖なる出来事がある。

 「だから、もし家族がいるのに、修道院に来て、修道士になりたい人がいたら、その人に言うだろう。『許しておくれ。君にはもう自分の<修道院>があるのだよ』とね」。ピョートル修道院長はそう言った。(『修道院へ行くロシア人は何を求める』ロシアNOWより)

 面白い記事です。よく考えるとその通りです。これはオプス・デイが言っていることにも共通します。オプスデイの考えは「生活の日々の状況、特に仕事の聖化を通して信仰に合致した生き方をする」と言っています。家庭生活の家事を聖化し、こどもの信仰教育、夫婦の愛すべてを聖化すること。修道生活だけが聖なる生き方ではない事を示しています。人達が「家庭の聖化」を真剣に考え実行するならば家庭での多くの問題は解決するでしょう。

Sergievposad ロシアの修道院

2014年11月15日 (土)

ノラ猫チビ

 コロの子どもらしいチビ。コロはノラ猫なのに甘え上手なのであちらこちら家で可愛がられているらしく、毛並みの艶もよくコロッとしています。おそらくそれぞれの家で違う名前で呼ばれているのでしょう。一緒にくっついてくるチビは用心深く、近づくとすぐに逃げてしまいました。

 しか~し、私の努力が実り、ついに撫でるのに成功。するとどんどんなついて今ではこの通り。 

Cimg4979

それにしてもコロにそっくりです。そしてもはやチビではなく大きくなりました。

Cimg4302_2 こちらが父親のコロ

2014年11月14日 (金)

子は親を超える

 次男は料理が好きで、自分で色々試しているようです。今回は「ホウレン草のキッシュ」を作りその写真を送ってくれました。

Photo_2

 なんとパイ生地から作ったそうです。私はいつも冷凍生地を使っているのに・・・ついに息子は私を超えてしまいました。嬉しいです!彼は今修士論文を書くのに忙しいはずですがきっと料理は気分転換になるのでしょう。彼が帰省した時に何を作ってくれるのか楽しみです。

2014年11月13日 (木)

藺牟田池と大クス

Cimg5001

Cimg4995

  風が冷たくて誰もいなくて、店は閉まっていて・・・静か・・・。そんな藺牟田池へ行ってきました。紅葉を期待していたのですが、ほとんど無し。小雨もパラパラ・・・。寒い寒いと言いながらお弁当を食べて車へ。それでも静かな池にはハクチョウやカモがいて餌をねだって寄ってきました。山と水の景色は心を落ち着かせてくれます。

 帰りに蒲生の大クスを見に寄りました。十数年ぶりの蒲生神社。境内の道も綺麗に整備され、駐車場も増えていました。やはり大クスの迫力はすごいですね。歴史と力を感じました。

Cimg5007_3

Cimg5011

2014年11月12日 (水)

人生相談

 ラジオの人生相談を聴いていると、離婚を勧めるケースがよくあります。もちろんカトリックの結婚(秘跡)としてスタートしていない(結婚準備講座を受けていない)ので、秘跡としての結婚とは事情は少し違います。

 今日は「トマさん祈りの部屋」に離婚について書いてありました。もちろんキリストの教えに基づいています。丁度シノドスの『福音宣教の観点から見た家庭の司牧的課題』に当てはまる事です。今悩んでいる人、苦しんでいる人の力になれればと思います。

 以下「トマさん祈りの部屋」からのコピーです。

人生は一度きり、毎日が本番です。ところが、不倫や不祥事という大きな問題が起こると、「離婚」という解決策が選択肢の中で真っ先に上がりがちです。あたかも、辛くて不幸な過去を「なかったこと」にして、人生をリセットして「やり直し」が出来るかのようです。心情的には理解できますが、現実は、人生は一つにつながっています。過去と今、今と未来がつながって、はじめて人は成長し、人生は完成に向かいます。こじれた関係を修復するのが困難に思え、時には不可能に見えます。しかし、そこから逃げることは、解決になりません。今と未来をつなげる方向で解決を探るべきです。これを根本に据えて、そこから様々な方策が出てくるでしょう。

不倫の場合、相手を「ゆるせない」気持ちが強く、相手を憎んだり恨んだりします。その気持ちは当然です。「ゆるせ、恨むな!」と言われても、自分でどうしようもないこともあります。しかし、そのままでは未来につながっていきません。そこで発想の転換が必要です。「ゆるせなくていい」、「恨んでもいい」のです。ただし、「不倫をした相手をゆるせない」ではなく「相手のした不倫をゆるせない」、そして「相手を憎む」のではなく、「相手がした不倫を憎む」のです。それは正しいことです。そして、相手を「ゆるすこと」に少しだけ近づきます。

解決のゴールは遠いのですが、唯一の解決は自己の改心と相手を「ゆるす」ことです。なぜなら、相手を憎むことは、自分の過去を憎むことにつながるからです。それは重苦しい人生です。そこからは、未来につながる芽は生えてきません。マイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、苦しみや困難を受け止め、正面から向き合うことで、辛い経験がきっとプラスになります。

人生の道は一本です。途中で途切れないように、前向きでがんばりましょう。苦しんでいる人々に声をかけたいです。逃げないで!くじけないで!前を向いた時、そこに神の助けが届きます。恵みは「受け取る」ものです。手を出さなければ、過ぎ去ってしまいます。神は共に歩んでくださいます。そして、ゴールで私たちを待っています。だから来た道を引き返さないで、前へ進みましょう!■
*2014/11/11 「月の黙想会」の説教「人生の幸福」より

Photo フランシスコ教皇様による結婚式

2014年11月10日 (月)

手書きのカード

 離れて暮らす長男から写真が届きました。首を長~くして待っていたので私の首はキリンのようです。(^^ゞ

 ところで今はインターネットメールにケイタイ、遠くに離れていてもすぐに連絡を取ることができます。近くにいる時と変わりません。最近ではラインを使う人たちも増えているとか。またスカイプを利用している人も。私が若い頃には手紙を出して返事を受け取るのに約2週間かかりました。電話も時差を考えて交換手に国際電話を頼まなければなりません。通話料も高くて通話時間を気にしながらの会話でした。

 しかしこれだけ便利になってもやはりクリスマスやご復活のカードは電子メールですませたくないですね。自分の手で書いて、日数がかかっても切手を貼って出したいです。わたしも誰かからカードを受け取ればその人の温もりを感じます。何度も手に取ってその人の事を思い出します。電子メールでは味わえない事です。

81249257_o1

82821983_o1

11072054_527b7f67090e9 クリスマスカード色々(ラウダーテより)

 そろそろ誰にどのクリスマスカードを送るのか決めて文案を考えなければ。クリスマス時期は郵便物もこむので配達までに時間がかかります。来月始め頃には出せるように準備をしましょう。

 「王であるキリスト」の祭日が過ぎるといよいよ待降節です。私も皆さんも良いクリスマスの準備ができますように。

2014年11月 9日 (日)

ラテラン教会の献堂記念日

 ラテラン教会はローマの司教座聖堂です。324年にコンスタンティヌス帝により建てられました。Basilica di San Giovanni in Laterano(ラテランの聖ヨハネ大聖堂)とも呼ばれています。そしてすべての教会の母と言われています。

  教会とはただ単に建物を指すのではなく、教会=神の民の集まり(呼ばれた者のつどい)のことです。決して結婚式場や音楽ホールではありません。カトリック教会での結婚式は婚姻の秘跡を行うため、音楽は神への祈りをささげるためです。教会のために祈ると言うことは神の民のために祈るということです。

 

Photo Basilica di San Giovanni in Laterano

Ejdzej_and_iric_wedding_communion_2 カトリック教会での結婚式(ウィキペディアより)

2014年11月 7日 (金)

ロシアNOW

 時々見る「ロシアNOW」。アメリカ寄りのニュースだけではよくないので、ロシアからのニュースも見ます。

 特に写真でおもしろいものがあります。以前紹介した「しっぽのある警備員」とか。では「ロシアNOW」から可愛い・綺麗・めずらしい写真をどうぞ!

Photo_4

Photo_5

Photo_6 ライガー(ライオン×タイガー)

おまけ

Photo_7

2014年11月 4日 (火)

安楽死とは全く逆

Photo_3

 以前紹介したスペインの少女アレクシアです。

 なぜ再び彼女について書くのかというと、最近「安楽死」の事が話題になったからです。「安楽死」とまったく正反対で死に向き合ったのがアレクシアです。

 人は皆自由に判断、選択できます。安楽死を選ぶかアレクシアのような死を迎える生き方を選ぶか。キリストの教えを信じているかどうかでその判断・選択は違ってきます。つまり信仰があるのか無いのか。

 以下は『アレクシア』 酒井俊弘著(聖母文庫)から

 アレクシアは1984年13歳頃に発病しました。『ユーイング肉腫』腫瘍が首の頚椎にできその痛み・苦しみは想像を絶するものでした。

 しかし彼女は痛みの連続の一日でも「・・・全てがうまくいったことを神様に感謝しましょう!」と言ったのです。どうしてアレクシアはこのような態度をとれたのだろうか?・・・人間的に見ればたとえ最悪の出来事であっても、もしそれが神様のご計画であるのならば、いつも『全てがうまくいった』はずだと・・・。限りなく私たちを愛されている父なる神が、根本的に悪いことを私たちにお送りになるはずがないと信じるのが、キリスト教の信仰である。たとえその時は理解できない苦しみであっても、あるいは一生計り知ることのできないような『不幸』であっても、それが『自分を限りなく愛してくださる方から』の贈り物であると信じる者には、それを喜んで受け入れることができるのだとアレクシアは身をもって私たちに教えてくれたのである。

 さらにアレクシアは自分自身の意志やモンチャ(彼女の母親)の勧めにしたがって、病気の苦しみを『誰かのために捧げる』ということを常に実践していた。『諸聖徒の交わり』と呼ばれるカトリック教会の教えがある。この世に生きている人たちはもちろん、すでにこの世を去った人たちも含めて、全ての信者は霊的につながれていて、何らかの功徳のある行いを自分のためではなく誰かのために捧げることができるという教えである。教会のため、教皇様のため、罪人の改心のため、パドレのため、友達のため・・・・・・アレクシアは『有意義』に自分の苦しみをつかっていたのである。

 アレクシア、なんて幸せな少女でしょう。自分の苦しみを他の人達のために捧げられるなんて。そういえば小さきテレジアも大テレジアも聖人たちは皆自分の痛みや苦しみを煉獄で苦しむ人の救いや、罪人の改心のために捧げていました。私から見るとアレクシアも立派な聖人ですね。

 カトリックの教えを良く知らない人はアレクシアのような生き方は信じられないでしょう。そんな人はいるはずはないと。しかし彼女のように死を迎えた人達は有名、無名にかかわらず沢山いるのです。まずは彼女について書いてあるこの本『アレクシア』を読んでみてください。きっと安楽死に対する考えもはっきりしてくると思います。

2014年11月 2日 (日)

死者の日

 カトリックでは今日は「死者の日」です。亡くなった人たちのために祈ります。

 私はお墓参りを世間一般の人達のように重視していません。お墓に行った時だけ祈るよりも、毎日亡くなった人たちのために祈ることの方が良いと思うからです。ですから毎日亡くなった先祖や家族、友人のために祈りますがお墓には年に2回くらいしか行きません。

 今年はまだ一度も行っていなかったので、先日行ってきました。草を取り、お花をあげて、亡くなった人たちが主の栄光に共に与れますようにと祈りました。

 私の姉は11歳の時に亡くなりました。祖母は毎夕方亡くなった姉の霊魂の救いのためにロザリオを祈っていました。きっと姉はすでに煉獄から天の国に入っているかもしれません。そしてこれは余談ですが、姉が亡くなった日と同じ日に祖母も亡くなりました。

 死がすべての終わりではなく、復活の希望があることは主からの一番のお恵みだと思います。主に感謝!

Dsc03118 11月2日死者の日のポーランドのお墓(ブログ「ポーランドの蜂蜜酒」より)

2014年11月 1日 (土)

諸聖人の日

 今日は諸聖人の祭日です。すでに天の国で主と共におられる聖人たちは私たちの希望です。ですから諸聖人に取り次ぎをお願いします。

 沢山おられる聖人の中、誰でも自分が特に好きな聖人がいるものです。私が特に好きな聖人はアビラの聖テレジアと聖ホセマリア・エスクリバーです。奇しくも二人共スペイン人ですね。

 私自身が苦しい時や悲しい時、不安な時にはいつも聖母とそしてこの二人の聖人に主への取り次ぎを祈りました。特に聖ホセマリアに。今までそうすることで主から苦しみ、悲しみ、不安を乗り越える力が与えられました。それどころかそれらの苦しみ、悲しみや不安は希望・恵みと思えるようになりました。不思議ですね。主が共にいて下さるなら何も思い煩うことはありません。

 主のお恵みを感謝しながら諸聖人と共に今日この日を祝いたいと思います。

Photo_2 (アマゾンより)

Wmnjapan2 (オプス・デイより)