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2013年11月

2013年11月29日 (金)

初聖体は大きなお恵み

 ある写真を探していたところ、まったく関係のない初聖体の写真を何枚か見つけました。一枚は長崎の黒島教会の初聖体、もう一枚は太田教会の物です。黒島教会は初聖体の女の子とご両親が写っているものです。御両親は正装、女の子は着物を着て頭にはベールと花環、両手を合わせた姿はとても綺麗で可愛らしいのです。ここに写真を載せたいのですが、個人のブログなので。ご両親と女の子の本当に嬉しそうで幸福そうな秘跡のお恵みが伝わってきます。

 太田教会は毎年盛大にお祝いしているようです。神父様やシスターの熱い思いが伝わります。

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 初聖体の記念に↓の様な御絵を作っているようです。とても良いアイデアでしょう。記念になりますよね。一緒に勉強したお友達のことも忘れないでしょう。私の教会でも作ったらよいと思います。

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 特に初聖体は大切な秘跡ですが、子どもがある年齢になったら自動的に与えるくらいにしか考えていない人達もいます。ご聖体についての勉強をあまりせずに、秘跡のお恵みもよくわからずに初聖体を迎える子供たちは可哀そうですね。

 教会を離れてしまう原因もこのあたりにあるのではないでしょうか。

2013年11月28日 (木)

お菓子作りの日

 なぜか朝からお菓子を作りたくなり、かねてより娘に頼まれていた「ふくれ菓子」と「チーズ饅頭」を作りました。

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 ふくれ菓子は何度も作っているので問題なし。しかし「チーズ饅頭」は初めて。前の教会バザーで初めて食べて、家族全員お気に入りになったお菓子です。クックパッドで作り方を調べてトライ。

 ところが思わぬ失敗をしました。買ってきたクリームチーズが切れないのです。チーズケーキ用のクリームチーズでやわらかく、べたべた・・・。ナイフにくっつくし、手にもくっつくし・・・生地で包むのに一苦労。皆さんも気をつけてくださいね。このお菓子を作る時には普通のクリームチーズを買うように。

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 でも味は問題なく☆゚:。*ォィスィ─(゚∀゚*人)─ッッ!!!*。:゚☆ また作ろっと!

2013年11月27日 (水)

ピラールの聖母

 

Photo_3ピラール祭 聖母像

 「ピラールの聖母」皆さん聞いたことがありますか?スペインの保護の聖母マリアです。日本ではルルドやファティマの聖母が有名ですが、このピラールの聖母はちょっと特別です。これも酒井神父様の本で知ったのですが、イエズスの十二使徒の一人聖ヤコブはスペインで宣教しました。大変苦労し、もう諦めようかと思っていたまさにそのとき、聖母マリアが出現し、励まされて、その後も宣教を続けることができたそうです。

 ではルルドやファティマとどう違うのか。ルルドやファティマは聖母が亡くなってから御出現していますが、聖ヤコブにご出現された時は、聖母マリア様はまだ生きていらしたのです。生きておられる間に他の所にご出現されたのはここだけ。ピラールとはスペイン語で石柱という意味で、聖母マリア様が立たれたのが、ちょうど石の柱の上でした。サラゴサという町に大聖堂が建てられています。

Photo_2 サラゴサ 大聖堂

2013年11月26日 (火)

聖ペトロの遺骨

 教皇様は24日(日)にカトリックの「信仰年」の締めくくりとして、聖ペトロの遺骨を初めて公開されました。そしてサンピエトロ広場で遺骨の入った聖遺物箱を前にごミサをささげられました。

Holy Mass concluding the Year of the Faith - S.Messa e Angelus a chiusura dell'Anno della Fede
YouTube: Holy Mass concluding the Year of the Faith - S.Messa e Angelus a chiusura dell'Anno della Fede

 聖ペトロの遺骨であることを疑問視する考古学者もおり、真贋論争があるそうですが、遺骨が本物かどうかは問題ではありません。聖ペトロがいたことは事実ですし、彼が何を話、どう生きたかを知ることが大切です。

 聖骸布も同じです。それがかりに偽物であっても、それでイエズスキリストの存在が否定されるわけではないのですから。どちらも真贋にこだわり過ぎて、大切なことが見えなくなってしまわないように気をつけなければなりません。

2013年11月25日 (月)

信仰年の目的

「トマさんの祈りの部屋」より

洗礼を受けた時に、その人のうちに神が宿ったのです。神の霊が宿り、神と結ばれ、神の子となりました。洗礼は子供を教会に縛り付けることではなく、神の子として新たに生まれることです。教会に託された「生きた遺産」であるイエス自身が、人に与えられる瞬間です。洗礼を遅らせることは、罪の状態を放置することで、神との出会いを妨げることです。金持ちの遺産を羨ましく思うなら、それ以上の聖なる遺産を喜んで受けるのが理屈にあっていると思うのですが・・・いかがですか?

洗礼を受けているキリスト者は、頂いた遺産の偉大さに早く気づくべきです。神の子になり、心に神が宿るのです。大金持ちの子になる以上に素晴らしいことが自分の身の上に起こっているのです。だから、まず感謝しましょう!そして、その家の子にふさわしい生き方、振る舞いを心がけましょう。それがキリスト者の人生の根本だからです。この信仰の遺産に気づき生きることが、信仰年の目的でした。「私は神の子である」そんな誇りを胸に堂々と生きていきましょう。 *2013/11/04 長崎純心聖母修道会、定期講話より

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 信仰年も終わり、今反省している人も多いでしょう。私も自分の「信仰年」はどうだったのか反省しています。でもこれからが大切です。信仰年で学んだこと、体験したこと、そしてできなかったことをこれからの生活に生かしていかなければならないと思います。

2013年11月24日 (日)

み言葉の宣布。。。

말씀의 선포... み言葉の宣布。。。

아는 사람은 다 아는 이야기지만,, 난 언제나 강론원고를 준비한다.
知っている人はもう知っている話けど、、おれはいつも説教の原稿を準備する。

3분도 안되는 짧은 강론이라 할 지라도 난 원고를 준비한다.
3分もならない短い説教とは言っても、おれは原稿を準備する。

강론이란 생각나는 대로 떠드는 것이 아니라 말씀의 대리자로서 선포하는 의미가 있다고 배웠기 때문이다.
説教とは思い起こす通りしゃべるのではなく、み言葉の代理者として 述べ伝えることとしての意味があると教えてもらったからだ。

지금까지는 컴퓨터 워드로 작업해서 프린트를 한 원고를 들고 강론을 했었다.
今まではパソコンのワードで作業してからプリントをした原稿を持って説教をしていた。

생각해보면 옛날에는 전부 손으로 정성껏 써서 했었을텐데... 참 세상이 발전했다는 생각도 든다.
考えてみると、昔には全部 手で真心を込めて書いてからしたはずなのに、、本当にこの世が発展したと言う思いもする。

하지만, 이제는 전부 컴퓨터 화일로 보관을 하다보니.. 예전처럼 원고를 철해놓는 것도 필요가 없고... 가치가 있는 일이긴 하지만, 원고가 너무 일회성인 부분도 있었다.
しかし、もはや全部パソコンのファイルで保管をするから、前のように原稿を纏めて綴じることも要らないし、、価値あることだけど、原稿がちょっと一回性である部分もあった。

그래서 내일 새로운 시도를 해보려고 한다.ㅎㅎ
そう言うわけで、明日 新しいことを試そうとする。ふふ 

Rimg0001 ipadで                 ブログ「ナルシスト~好きに暮らそう」より

 
 
  昨日紹介した神父様のブログ(数年前の記事)です。典礼は確かなのです。
 以前有名なH神父様と同じ教会でしたが、H神父様は話しの準備はせずに(聖霊の助けのままに?)話します。反対に李神父様はきちんと準備して話します。お二人は対照的ですよね、顔は似ているのに。ヾ(>▽<)oきゃ、ごめんなさい!

2013年11月21日 (木)

ぎんなん

 今日Aコープの店でぎんなんを見つけました。私はぎんなんが大好き。夫も娘もどちらかというと嫌い。なので買うかやめようか迷ったのですが200円という安さに負けてしまい買いました。

 家に帰って、早速ペンチで割れ目を入れて封筒に入れて電子レンジでチン。ホクホクのぎんなんに・・・おいしい~\(^▽^)/

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 ところがそれを見ていた娘が「ぎんなんには毒があるよ」と。そういえばぎんなんは食べ過ぎたらいけないと亡き母が言っていました。娘が言うには一度にたくさん食べると中毒を起こして嘔吐したり痙攣したりするそうで、重いと死ぬこともあるそうです。子どもは一度に3~4個、大人は10個くらいでやめておいた方が良いと言われました。娘が言ってくれなければ20~30個位はぺろりと食べていたでしょう。┐('д')┌

 どんな物でも大食は良くないですね。これから気をつけます。ヾ(_ _。)ハンセイ…

2013年11月20日 (水)

どうすれば神様を本当に愛することができる?

 どうすれば神様を本当に愛することができるのでしょうか?この答えを酒井神父様は次のように書いています。

 一言でいうならば、神さまがなってほしい私になることです。神さまは私たち一人ひとりを、「こういう人になってくださいね」と望んでこの世に送り出してくださったのです。一人ひとりに求められるものは、それぞれが皆違います。神さまは私に対しては良い司祭になってほしいと望まれている。皆さん方一人ひとりに対しては、良い娘になれ、良い母親になれ、良い父親になれ、良い息子になれ、あるいは会社の中であれば良い上司になれ、良い部下になれ、と望んでおられるに違いない。それぞれの立場に対して神様が望んでおられることがあるはずですよね。ですから、神様がなってほしい自分になることが、神様にとっても一番嬉しいことであるし、私たち一人ひとりにとっても一番幸せな道なのです。そこからずれていくと、自分に対しても神様に対しても決して良い形にはならない。  『雇われ羊飼いのみたび言いたい放題』 黙想会説教・講話より

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 当たり前のようですが、実際はなかなかそうできないのが私たちです。私自身、良い妻か?良い母親か?良い信徒か?今の自分を見て神さまは喜んでいらっしゃるか?(*´Д`)=з

2013年11月17日 (日)

知識

 よく「信仰に知識は必要ない」というようなことを言う人がいますが、それは間違いです。かねてから私が思っている事、言いたいことを酒井神父様が書いています。

 「知識を増やすことは、もっとミサを愛するためです。正しい知識を別の言葉で表現するならば、真理だと言えるでしょう。真理はその本質から、妥協を許しません。一足す一は二であることに妥協すれば、あらゆる計算は成り立たなくなります。真理における非妥協な態度をとることに対して、それは保守的だと非難する人たちがいるのは事実です。「真理、真理と言って、妥協しないのは寛容さに欠ける態度だ」と言うのです。けれども、そういう人たちこそ、自分たちの意見こそが真理だとして譲ってくれないのですが…。真理に対する非妥協を支えるのは、真理を愛する心です。真理を大切にするからこそ、譲れないのです。・・・・・真理である神と、隣人とを愛する心から出てくるものである限り、非妥協と寛容・謙遜とは両立可能です。 『雇われ羊のみたび言いたい放題』の「ミサとは何か」より

 聖ホセ・マリアも言っています。「教理と行いにおいて妥協してはならない。ただし、物腰は柔らかく。真綿で包んだ強力な鉄棒のように、一徹でありなさい。しかし、無作法であってはならない」(『道』397) 「常に全てにおいて教会と同じ心を持ちなさい。それができるよう、必要な霊的・教理的形成を受けなさい。そうすれば、現世の事柄を正しく判断する基準をそなえた人、間違いに気づいたらすぐに正す謙虚な人になるだろう」(『鍛』840)

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 「わたしは真理である」と言われたキリスト。この真理を曲げてはいけません。人間の都合の良いように、人間の弱さのせいにして、寛容さを理由にして、真理を捻じ曲げてはいけません。それはキリストを否定することになります。そのためにも真理とは何か、正しい知識を持たなければなりません。それがカテキズムです。信徒は『カトリック教会のカテキズム』をしっかりと学ばなければなりません。以前「信徒に勉強(要理)は必要ない」と言われた司祭がおられました。あれは冗談で言われたと思いたいです。

2013年11月16日 (土)

信仰を生きる ごミサ

 またまた『雇われ羊飼い・・・』から

 神様の恵みというものは、五感で感じることができないー見えない、聞こえない、匂わない、触れられない、味わえないーですよね。じゃ、どうしたらいいのか。神様がくださる恵みを・・・感じることができるように、大事なものを遣わされた。それが秘跡。

  ・・・・・聖体の秘跡では、「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ」、「これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい契約の血」という言葉が唱えられ、パンという物を、掲げたり、割ったり、拝領したりという動作で、聞いて、見て、触れて、味わうことができる。

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 ・・・・・「聖なるミサに与るときは、神的な犠牲に参加していること、すなわちキリストが祭壇上でふたたび自らをあなたのためにお捧げになることを考えなさい。事実その通りなのだから」(『鍛』831) 聖ホセ・マリア

 たとえ人類が一人しかいなくても、イエス様はその一人のために十字架につけられたと言われます。たとえ仮に誰からも愛されない、誰も私のために命など捧げてくれない、そういう状況になったとしても、神様はそうではない。イエス様は私のために何度でも、ごミサを通して命を捧げてくださっている。だから私たちはごミサに与るのです。ごミサに与れば、仮に他の誰からも愛されていると感じることができなくても、神様は私を愛してくださっているということを見て、聞いて、触って、味わうことができるのです。

 酒井神父様はごミサの意味、大切さをわかりやすく話してくださいます。これを読むとミサに与れることを本当に幸せだと感じます。そしてごミサに与りたいと思います。

2013年11月13日 (水)

ご聖体の中に現存しておられるキリスト

 ごミサの中でご聖体拝領の時に、ほとんどの教会ではパンだけ拝領します。私がよくアップしているヴァチカンのごミサを見てもそうでしょう。特別に結婚式や洗礼式の時、当事者と代父母が両形態(パンとぶどう酒)の時はあります。あるいはご聖体の祝日、かねてはパンだけですが特別にパンとぶどう酒にすることがあります。そうすることで特別な日であることを意識できます。私はいつも両形態より、特別な日だけ両形態にする方が好きです。

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 なぜ基本的にパンだけかというと、一番の理由はこぼしたり、雫が落ちたりしたら大変だからです。パンは拾えますがぶどう酒はそういうわけにはいきませんから。

 そしてもう一つ大切なこと。それは、パンとぶどう酒両方いただく方がパンだけいただくよりも完全だと誤解することです。それは間違いです。聖別されたパンの拝領だけで完全な拝領です。聖別されたパンの拝領だけでイエズス・キリストを拝領することになります。ですから私はいつもパンだけ拝領します。

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2013年11月12日 (火)

ヴァチカンでミサ曲

 以前ブログに書いた通り、9日ヴァチカンで西本智美さんの指揮による教会ミサ曲が演奏(彼女に言わせると祈り)されました。そしてヴァチカン国際音楽祭の最後をしめくくる10日にはベートーベンの第九を指揮しました。本当に素敵ですね。聴きたいけれどまだyou tubeにアップされていません。ミサ曲の方は写真があったので。まるで音楽が聞こえてきそうですね。

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2013年11月11日 (月)

ゆるす心

 幸いかな、私は今まで自分が「ゆるせない」と思った人に出会ったことがありません(私をゆるせない人はいるかも(;´Д`)トホホ)。ですからよく「ゆるせないはなし」を聞いてもピンとこないのです。しかし現実にはこのようにゆるせない気持ちを持っている人たちが多いようですね

 昨日のミサの中でも主任司祭が「感情ではなく、理性でゆるしたいと思うことが大切」と話されました。私もその通りだと思います。今はゆるすことが出来ないかもしれないけれど、「ゆるせますようにと」祈ることが大切ですね。酒井神父様も『雇われ羊飼い・・・』の「ゆるせない思い、ゆるす心」の中で・・・赤ちゃんとなってこの世にこられるほど、あるいは十字架の上でご自分の命を捧げるほど私たちを愛してくださった神様が、言わば間に立って、敵をゆるしなさい、愛しなさい、私もそうしましたよ、と言われている。だから、私たちも、少なくともそうしたい、ゆるせるようになりたいと望むべきではないでしょうか。・・・と書いておられます。

 あるインタビューで自称クリスチャンから「絶対に許しません」という言葉を耳にした時は、本当に悲しい気持ちになりました。せめて「今はゆるせないけれど、いつかはゆるせるように祈ります」くらいは聞きたいでした。本当にキリストを信じているのなら、絶対にゆるせないことはないと思います。

2013年11月10日 (日)

サツマイモ

 以前「芋たこなんきん」というドラマがありました。田辺聖子さんをモデルにした話で、女性が大好きなサツマイモとたこ(くり?)とかぼちゃを題にしていました。関西ではたこなのでしょうか?

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「あまちゃん」と同じく視聴率20%越えした作品

 わたしも「芋栗南瓜」が大好きで、芋頃いえ今頃の季節は毎日お芋を食べています。さて、以前娘が種子島に行った時、お土産に安納芋の焼き芋を買って帰ってきました。とても甘くて、じっとりとした食感でした。いつもは黄金せんがんか紅さつましか食べたことがなかったので、その食感と味にびっくり。それ以来サツマイモの種類が気になりだしました。

 今回は「紅はるか」と「甘太くん」を買ってみました。紅はるかは間違いなくお芋の品種ですが甘太くんは品種名というよりも商品名のような気がしますが・・・。どちらにしても両方とも甘いでした。食感は紅はるかはしっとり(じっとりとまではいきません)、甘太くんの方はほっこり、ジャガイモでいうと紅はるかはメイクイーン、甘太くんは男爵ですね。写真の通り色も違います。外観はそっくりなのに。しっとり系は焼き芋に、ほっこり系は天ぷらに向いていると思います。

Cimg3703 紅はるか と 甘太くん

 ところで「大学芋」と言えば、昔は大学祭で輪切りにしたサツマイモを素揚げして塩を振っただけの物を「大学芋」と言っていましたが、いまは素揚げしたサツマイモに飴がけした物(昔は中華芋といっていた)を指すようです。料理名も時代と共に変わりますね。

芋の種類色々

Photo ブログ「農家さんの食卓」より

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2013年11月 9日 (土)

妬み

 ラジオの人生相談で、「40代の息子(初婚)が小学2年生の子どものいる女性と入籍したけれど、許せないし、子どもも自分の孫とは思えない」というお母さんからの相談でした。そのお母さんが許せないのは、相手の女性が再婚で子どももいる事が理由です。彼女自身の性格などではありません。つまり「妬み」です。親戚や友人、近所の息子たちは初婚の女性と結婚しているのに、なぜうちの息子は初婚なのに再婚のしかも子どものいる人と結婚しなければならないのか・・・。絶対にいや、受け入れられないと。

 可哀そうでしょう、このお母さん。私はこの息子さんは子どものいる彼女を選んだ心の広い優しい人だと思いますし、これから4人仲良くしていくために(それが息子さんの幸せ)お母さんも孫を受け入れるように努力しなければならないと思います。

 この「妬み」について酒井神父様が書いています。少し長いですが引用します。

 妬みは原罪のひとつなのです。原罪はなくならない。必ず芽は出てくる。たとえば私たちが他人の家を見て、「いいなぁ」くらいで留めておけばいいのですが、それが何となく自分の家と比べて悲しくなったり.....。・・・・・家族に関してもそうですね、あの家の子どもさん、あるいはお孫さんはこんな大学に入ったらしい.....。・・・・・あるいは会社での役職とか、学歴とか、あらゆることに私たちは妬みを感じるかもしれないです。ですから、芽が出たらつぶしていくしかないのです。

 では、聖書には、どう書いてあるのか。こうしなさいという勧めがあるのです。聖パウロはローマの教会の人に勧めています。簡単な勧めです。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(12・15)

 これが秘訣である。喜んでいる人がいたら、一緒に喜んであげたらいい。「子どもさん、いい学校に入られましたね、よかったですね」、「素晴らしいものを手に入れられましたね、私も嬉しいですよ」と。どうして、それができないのか?それは、「他人」だからでしょう。他人だから妬みが起こるのです。わが子なら妬まないですよ、わが子の喜びは親の喜び。ところが、他人だから喜びが妬みになってしまう。わが子であれば、共に喜び、共に泣くはず。ですから、そこから考えられるのは、他人であっても、私たちと同じ神様の子どもであるという縦のラインを考える。つまり、親が同じだと考えることです。・・・・・聖パウロは別のところで言います。

 「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい」(1テモテ5・1~2)

 つまり、みんな身内としてみたらいいですよ、そしたら変な心、妬みの心とか清さに反する心も起こらないでしょう、身内なのだから、兄弟なのだから、姉妹なのだから、親なのだから......。そうして初めて、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことができるようになり、妬みにとらわれてしまうこともなくなるのではないでしょうか。 『雇われ羊飼いのみたび言いたい放題』 酒井俊弘著 

 みんなを身内として見ることは難しいことかもしれませんが、そうできるように努力しなければならないと思います。それにはやはり祈ることと、それができるようにお恵みを願うことでしょう。酒井神父様の説教集『雇われ羊飼いの言いたい放題』シリーズ3巻はすべて面白く、かつ教えられる内容です。皆さんにおすすめします。是非是非読んでみてください。私の本をお貸しすることも出来ます。

2013年11月 6日 (水)

雇われ羊飼い~2

 部活で教会に来れない子ども達について、どの教会も悩んでいるようですが、部活を始めてしまうとやめるわけにはいかないでしょう。部活を決める時に話し合わなければならない事だと思います。あるスポーツに才能があれば、それを伸ばしてあげたいと思うのが親心です。部活を選ぶか教会を選ぶか、あるいはどちらも可能な部(JRCや美術部、生物部、英語部等)を選ぶか・・・決めたら迷わない事ですね。

 我が家の子供たちは皆「帰宅部」でした。部活を決める時に、日曜日に練習や試合が無いこと、余計にお金がかからないこと、これらの条件に合う部ならよいと話し合いましたが、結局その条件を満たす部で入りたい所が無かったので「帰宅部」になりました。そのかわりに空手をずっとしていました。空手は団体ではなく個人の試合なので毎回参加しなくても問題ないからです。練習も平日に週2~3回で月謝も二人目からは半額でした。皆黒帯まで続けました。本人たちは入りたい部活に入れずにその時は不満もあったと思いますが今はあれで良かったと思っていると信じています。

 なぜこんなことを書いたかというと、酒井神父様の『雇われ羊飼い・・・』の中で「ミサとは何か」というところがあり、そのまとめとして次のように書かれていました。

〇ミサに与る理由は・・・   

 心の安らぎを得るためではなく、安らぎを与える人になるため。

 罪をゆるしていただくためでなく、罪をゆるせる人になるため。

 神様に受け入れていただくためでなく、神様を受け入れる人になるため。

 必要なものをいただくためでなく、必要とされているものを与える人になるため。

 つまり、自分を捨てて、もうひとりのキリストになるため。

これから部活に入る子ども達には親がごミサの意味と大切さをよく話した上で、よく考えて決めましょう。

Img_5960 各小教区の侍者たち(東京カテドラル) 「ブログNARCISSIST」の写真より

2013年11月 5日 (火)

雇われ羊飼い

 

20130828_86a6fd   酒井神父様の『雇われ羊飼いのみたび言いたい放題』が今年の夏に出ていました。相変わらずおもしろくて、しかもカテキズムの勉強ができます。励まされ、納得して、「頑張るぞ~」という気持ちになります。私にとってまるでビタミン剤のようです。本文の中に次のような文がありました。

・・・・・イエス様の十字架のそばに立った時、私たちは言いたいことを言うためにそこにいるのではない。そうではなくて、むしろイエス様が私に何を求めておられるかを、聴くために私たちはそこにいるべきなのです。・・・・・イエス様にお願いするのもいいのですが、「聴かせてください!イエス様、何をおっしゃりたいですか?」と尋ねないといけない。おそらく、「殉教してください」とか、そういうことは言われないでしょう。でも、もうちょっと良い親になりましょうとか、もうちょっと良い子どもになりましょうとか、もう少ししっかりと役割を果たしてくださいとか・・・・・、私たちそれぞれにイエス様の言葉が聞こえるでしょう。これから続けるごミサの典礼の中で、そして黙想会の中で、イエス様の言葉に注意深く耳を傾けていきたいとおもいます。 『雇われ羊飼いのみたび言いたい放題』黙想会説教より

 聴くことの大切さ、イエズス様は何を私たちに望んでおられるのか。いつもお願いばかりして、感謝して、一方通行のお祈りばかり。これからは私ももっとイエズス様の言葉を聴かなければと思いました。

 ところで酒井神父様が俳句を詠まれることは知っていましたが、これ程にプロ級とは知りませんでした。ホトトギスや朝日俳壇にも投句されています。私が好きな酒井神父様の俳句です。

 車椅子の父の高さに咲く躑躅      酒井湧水

 やはらかな母の指うら衣被         ゝ

 初時雨逝く人想ひパンを割る        ゝ

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2013年11月 4日 (月)

久しぶりにIL DIVO

  生協の共同購入をしているのですが、そのカタログにイル・ディーヴォのCDが載っていました。久しぶりですね。最近聞くことも無く、新曲も知りませんでした。

 日本語で歌っている曲があるらしく、You Tubeで調べたところみつかりました。しかし「花は咲く」はNHKの著作権でアップできません。「故郷」は今の所できますがいつダメになるかわかりません・・・。

「FURUSATO」故郷 Il Divo - Furusato [Live] Japan March 2012
YouTube: 「FURUSATO」故郷 Il Divo - Furusato [Live] Japan March 2012

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2013年11月 2日 (土)

死者の日

 昨日は諸聖人の祝日でした。天国にいる聖人たちのためにミサが捧げられました。聖人達はすでに天国にいます。

 今日は亡くなったすべての人のための日です。煉獄で償いをしているすべての霊魂が早く天国に入れますように祈りました。もちろんすでに天国にいる霊魂もいつか復活の恵みに与りますようにと。煉獄での償いの長さは私たちにはまったくわかりません。ですからいつも祈らなければ。文語での食後の祈りでは、いつも亡くなった人たちのための言葉がありました。ですから私は今でも文語で祈っています。口語の食前・食後の祈りは覚えていません。

食前の祈り

主、願わくはわれらを祝し、また主の御惠によりて

われらの食せんとするこの賜物を祝したまえ。

われらの主キリストによりて願い奉る。 ▲アーメン

聖父と聖子と聖霊との御名によりて。 アーメン。


食後の祈り

とこしえにしろしめたもう全能の天主、

数々の御惠みを感謝し奉る。 ▲アーメン

願わくは死せる人々(信者)の霊魂、

天主の御あわれみによりて安らかに憩わんことを。 アーメン。

     公教会祈祷書では「信者」となっていますが私は「人々」と、祈ります。

     「天主」を今は「神」としていますが、「八百万の神」と区別するために 

     「天主」を使います。

2013年11月 1日 (金)

カトリックの良いところ

 

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   今、『人間の分際・神父ー岩下壮一』を読んでいます。その中でこのように書かれた文章がありました。カトリックとプロテスタントの違いがよくわかります。

 第一次対戦の戦火がやんで三年・・・ロンドンのセント・エドモンズ大神学校で、彼は意外な発見をした。・・・・神学生たちの多くが、戦場からの帰還者であり、半数以上が何とカトリック以外の宗派からの改宗者だったということである。・・・・その何人かに、壮一は改宗と司祭志願の理由をたずねたものだ。彼らの答えは、ほぼ異口同音であった。

「・・・・・すぐそばで戦友たちが死んでいく戦場・・・・・信仰の無力さを、いやというほど知らしめた。・・・・・そのとき、目にとまったのが、カトリックの従軍司祭たちの姿だ。硝煙と血の匂いのただよう最前線の塹壕で、死にのぞんだ兵士らひとりひとりに黙々と秘跡をさずけている。

 赦しの十字架のしるしのためにあげられた右手、胸の聖体器から取り出された白い小さなホスチア、そして、臨終の聖なる油…。これらが、いま、孤独のうちに息絶えんとする兵士たちにとって、どれほど大きな宗教的力となっていたことか。

 くらべてプロテスタントの牧師がいくら慰めや励ましの言葉をかけても、こうした極限状況ではほとんど役に立たなかった。

 この現実に、ぼくらは目をさまされたのだ。宗教とは理屈ではない、言葉ではない。神の言葉が肉体となってわれらのうちに住みたまわなければ、ぼくらの真の救いはないのだと。その救いを秘跡によってもたらすのが、カトリック司祭なのだとね。ぼくらは真の救いを自分のため、また、その救いを必要とする多くの人々のために求めてカトリックに改宗し、カトリック司祭たらんと志しているのだよ。」

 カトリック教会が神から託されている人々の真の救いのすべ―それが司祭が言行をもって伝えるべき使徒伝来の教えであり、使徒伝来の権威にもとずく秘跡であるというのが、壮一のゆるぎない信仰であった。

 プロテスタントはミサを捨てました。秘跡をすてました。残念ですね。彼らが戻ってくることを祈ります。