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キリストを信じる人はどれくらいいるのでしょう。カトリック、正教、プロテスタント、そしてどこにも属さない人。
私がカトリックであり続けるのは、カトリックには秘跡があるからです。「洗礼」「堅信」「聖体」「ゆるし」「病者の塗油」「叙階」「結婚」この七つの秘跡ほど素晴らしいもの、希望を与えるものはありません。罪びとである私たちはキリストから何度でもその罪をゆるしてもらえます。ご聖体はキリストの特別なかたちでの現存です。それを直接いただける恵み。これらのことをよく知ればカトリックを離れるなんてありえません。
よく「信仰に知識はいらない」といって、カテキズム(信仰教育)が軽視された時期がありました。しかしその結果が洗礼を受けた後に教会を離れてしまう人や離婚する人たちを増やしました。それは秘跡の本当の素晴らしさや罪とは結婚とはどういうものかをきちんと教えてもらっていなかったからでしょう。
私は洗礼を受けて60年以上になりますが、いまだに日々学び教えられることばかりです。信仰の神秘は尽きることがありません。時には疑問を持ったり、絶望しかかったりすることもありましたが、それでも・・・カトリックであり続けます。きっと多くのカトリック信者さん方も私と同じだと思います。
もしカトリックがなくなったら・・・私は正教に移るでしょう。
アッシジの聖フランシスコといえば「清貧」。清貧は物を持たないことではなく、物に執着しないこと。それを手ばなす時には執着せずに喜んで手放せることです。富や財産を自分の物と執着せず、主から預かったものと思い、持たない人と分かち合う人が清貧に生きる人だと思います。聖フランシスコとその後のフランシスコ会を支えたのは貧しい人達だけではなく、多くの富かな人々の金銭と祈りがあったことを忘れてはなりません。
教会の中でよく質素に生活している人が豊かに暮らしている人を軽蔑するような言動を耳にしますが、私は賛成できません。それはまるで神を否定する無神論者と同じ、見せかけだけの平等です。貧しい人でも豊かな人でも、富に執着しない人が天に宝をつめる人です。貧しくても豊かでもお金や富に執着する人を主は喜ばないでしょう。
諸事情によりしばらくブログをお休みします。秋休みかな?皆さん秋を満喫してくださいね!
もう10月、今月はロザリオの月。そして今日は守護の天使の記念日です。
守護の天使・・・皆さんは意識していますか?私たちが悪に傾かないように守り助けてくださる天使たちを。毎晩寝る前に守護の天使に感謝しなければいけませんね。
思えばいつも守護の天使に守られてきた私です。あの時・・・あの時・・・そう、どんな時にも必ず導き守られました。それは事故にあわず、病気にならなかったということではありません。苦しみや涙がなかったという意味でもありません。悪から守られたということです。たとえ罪を犯しても回心する道へ導いてもらいました。
守護の天使は無病息災のお守りではありません。主が私たち一人一人それぞれに天使をつけてくださったのは私たちが正しい道を歩むためです。これもまた主のいつくしみでしょう。