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2015年7月

2015年7月31日 (金)

「教皇講話集」から ゆるしの秘跡

 今日はイエズス会創立者の一人聖イグナチオ・ロヨラ司祭の記念日です。日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルもいたイエズス会は日本人にとって特になじみのある会です。

 さて、今日は「ゆるしの秘跡」について『教皇講話集』から。

 わたしたちは(キリスト教入信の秘跡による)このいのちを「土の器に」納め、罪ゆえに依然として誘惑と苦しみと死に服しているため、新しいいのちを失うこともありえます。・・・ゆるしの秘跡はいやしの秘跡です。告白に行くのは、自分をいやしていただくためです。魂をいやし、心をいやし、何であれ犯したよくないことをいやしていただくためです。・・・・・ゆるしの秘跡において、わたしたちはイエスにゆるしを願います。ゆるしはわたしたちの努力の結果ではなく、贈り物です。聖霊のたまものです。・・・・・「わたしは神だけに告白します」という人がいるかもしれません。確かにあなたの神に向かって「わたしをおゆるしください」といって、罪を述べることができます。しかし、わたしたちの罪は、兄弟と教会に対する罪でもあります。だから、司祭を通して、教会と兄弟にゆるしを願わなければならないのです。・・・・・多少恥ずかしく思うことは健全です。・・・・・羞恥心はわたしたちを謙虚にするからです。・・・・・人は告白の列に並ぶとき、恐れや、場合によっては恥ずかしさを感じたりします。しかし、告白が終わると、自由な、伸び伸びした、美しい、ゆるされた、真っ白な、幸福な状態ででてくることになるのです。これが告白のすばらしさです。・・・・・ゆるしの秘跡にあずかるとは、温かい抱擁に包まれることです。それは御父の限りないあわれみの抱擁です。(p.41~45)

 教皇様は、最後に告白した時から長い時間が経っていたなら、明日を待たずに告白に行ってくださいと言っています。イエス様は司祭よりいつくしみ深く、深い愛をもって受け入れてくださるので、勇気を出して告白に行ってくださいと。

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2015年7月30日 (木)

「教皇講話集」から エウカリスチア

 「エウカリスチア」つまり「ご聖体と感謝の祭儀」ごミサです。神学的なことはさておき、教皇様はこのエウカリスチアがいかに大切かを強調されています。

・・・・・感謝の祭儀は単なる祝宴以上のものです。それは、救いの神秘の中心である、イエスの過越しの記念したものです。「記念」とは、単に思い起こすことでも、単純な想起でもありません。それは、わたしたちがこの秘跡を祝うごとに、キリストの受難と死と復活の神秘にあずかることです。エウカリスチアは神の救いのわざの頂点をなします。・・・・・わたしたちは、主が聖体によって与えてくださったたまもののゆえに、どれほど主に感謝しても感謝しきれません。それはまことに偉大なたまものです。だから、主日にミサに行くことがきわめて大切なのです。ミサに行くのは祈るためだけではなく、聖体を拝領するためです。このパンは、イエス・キリストのからだであり、わたしたちを救い、ゆるし、御父と一つに結びつけるのです。わたしたちは主日ごとにミサに行きます。それは、主日はまさに主が復活された日だからです。だから主日はわたしたちにとってきわめて大切なのです。わたしたちは聖体によって、自分たちが教会に属するもの、神の民に属するもの、神のからだに属するもの、イエス・キリストに属するものであることを感じます。・・・・・子どもが十分よく初聖体の準備をすること、それもすべての子どもがそうすることが大切です。初聖体は、洗礼と堅信の後、イエス・キリストにしっかりと結ばれるための第一歩だからです。

 教皇様の「エウカリスチアの秘跡」について厳しい言葉が続きます。

・・・・・主日のミサに行き、聖体をどのように生きているか。それは単なる祭儀、固定した伝統、自己を見つめ、これでいいのだと正当化する機会なのか。それとも、それ以上のものなのか。・・・・・聖体をどのように生きているかを判断するために、きわめて具体的なしるしがあります。第一の手掛かりは、他者に対するわたしたちの見方、考え方です。・・・・・わたしたちは皆、自らに問わなければなりません。ミサに行くことで、それをどのように生きているだろうか。こうした問題を抱えた人(貧しい人、病気の人、のけ者にされた人、社会的困難・自然災害にあった人・経済危機に苦しむ人)を助け、彼らに寄り添い、彼らのために祈っているだろうか。それとも少し無関心になっていないか。・・・・・第二の手掛かりはきわめて重要で、それは自分がゆるされたと感じる恵み、そしてゆるそうとする恵みです。・・・・・神のあわれみを必要としていることを感じず、自分が罪人だと思わない人はミサに行かないほうがましです。わたしたちがミサに行くのは、自分が罪人だからです。そして、神のゆるしを受け、イエスのあがないとゆるしにあずかりたいからです。ミサの初めに唱える「告白します」は、単なる「形式だけ」のものではなく、まことの悔い改めの行為です。・・・・・感謝の祭儀はわたしたちが行うものではないことをつねに心に留めなければなりません。それは、わたしたちがイエスのことばとわざを記念することではありません。そうではありません。これは、まさにキリストのわざなのです。感謝の祭儀の中で働くかた、祭壇上におられるかたは、キリストです。感謝の祭儀はキリストの与えるたまものです。キリストが、ご自身を現存させ、ご自分の周りにわたしたちを集め、ご自分のことばといのちでわたしたちを養ってくださるのです。・・・・・「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6・54)。信仰と、祈りと、ゆるしと、悔い改めと、共同体の喜びと、貧しい人々、多くの兄弟姉妹の必要に対する気遣いの精神をもって、聖体を生きましょう。(p.36~40)

 なんとなく、日曜日だから、いつものように・・・という安易な気持ちでミサの与ってはいけませんね。そして教皇様は「自分が罪人だと思わない人はミサに行かない方がましです」とまではっきり言っています。厳しい言葉ですがこれは本当です。

Photo フェイスブック:聖ホセマリアより

2015年7月29日 (水)

あるカトリック教会

 今日のネットニュースで「スバル 苦悩する外国人労働者」という記事が目にとまりました。私もスバルの軽を使っているので興味をひかれその記事を読むと、その中にカトリック太田教会についても書かれてあったので早速教会のホームページを見てみました。とてもよくできたyoutubeでの教会の紹介がありました。


YouTube: CATHOLIC OTA CHURCH

 まさにカトリック教会です。太田市には外国人労働者との間で様々な問題があるようです。しかし教会に集まる人たちはみな兄弟姉妹です。皆はキリストにつながっています。「noteひとつになろうキリストのうちにみな、ひとつになろうnote」聖歌にある通りです。こういう時にこそカトリックの素晴らしさを見せてほしいです。

群馬県太田市カトリック太田教会http://catholic-ota.net/

2015年7月28日 (火)

「教皇講話集」から 堅信

 今日は堅信について。

・・・・・この秘跡はわたしたちをいっそう固くキリストに結びつけてくれます。聖霊の特別な力をわたしたちに与え、信仰を広め、守り、キリストの名を公言し、十字架を決して恥じないようにさせてくれます。だから、自分の息子や娘がこの秘跡を受けられるように配慮することが大切です。・・・・・わたしたちはもしかすると、彼らが堅信を受けることにそれほど配慮していないかもしれません。すると子どもたちは途中にとどまり、聖霊を受けられなくなります。聖霊はキリスト教的生活においてたいへん大切です。聖霊は前進する力を与えるからです。・・・・・堅信を受ける年齢に達している子どもや若者がおられるなら、彼らがキリスト教入信の秘跡を完成し、聖霊の力を受けられるよう、できるかぎりのことをしてください。これは大切なことです。(p.29~30)

 確かに洗礼と比べて堅信はあまり重視されていないような気がします。私のまわりにも堅信をまだ受けていない人がいます。以前堅信をまだ受けていない大人の方に教会の担当者が「今度堅信を受ける準備を始めませんか?」と尋ねたところ「何、それ?私はいいよ(拒否の意)」と答えていました。洗礼を受けても堅信の意味すら知らない人がいるのも事実です。教皇様は自分たちが堅信を受けたことを思い起こして、まことのキリスト者として生きることができるように主に助けを願いましょうと言っておられます。

3 堅信お祝いのケーキ(写真:Googleより) イタリアでは堅信もこのように盛大に祝うのですね。いいな~heart04

2015年7月26日 (日)

「教皇講話集」から 洗礼

91iqnzbr2tl  昨日から読み始めた本です。この本を読む限り、私の不安はなくなりました。教皇様の教えはカトリック(不変)であると(当たり前のことですが)安心しました。マスコミが教皇様の言葉を都合のよいように歪曲して報道していることがよくわかりました。

 教皇様はわかりやすく、時には厳しい言葉で私たちに教えておられます。それでは先ず「洗礼の秘跡」について。

「・・・わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」。それゆえ、洗礼は単なる形式ではありません。それはわたしたちの存在の深みに触れる行為です。洗礼を受けた幼児と洗礼を受けていない幼児は同じではありません。洗礼を受けた人と洗礼を受けていない人は同じではありません。・・・・・わたしたちは洗礼によって、わたしたちを侮辱する人、傷つける人をもゆるし、愛することができるようになります。・・・・・洗礼は、わたしたちが、困窮する人、苦しむ人、また隣人の顔のうちにイエスのみ顔を見いだせるように助けてくれます。それはすべて、洗礼の力によるものです。

・・・・・洗礼はわたしたちをキリストのからだの部分、神の民の一員とするのです。・・・・・いのちが世代から世代へと引き継がれるのと同じように、洗礼の泉から新たに生まれることを通じて、恵みも世代から世代へと引き継がれます。・・・・・わたしたちは自分の子どもたちに、幼子たちに、神の恵みと自分たちの信仰を伝えなければなりません。この子どもたちが大人になったとき、彼らの子どもたちに信仰を伝えることごできるようにするためです。それが洗礼というものです。・・・・・「教会の役目がどんなものであっても、また信仰の素養に差があっても、洗礼を受けた一人ひとりが福音宣教者なのです。・・・・・」(p.19~24)

 私がこのブログを始めたのは、キリストの教えを少しでも他の人たちに伝えたいと思ったからです。すでに信者の方は読んでいてさほど苦にならないと思いますが、信者でない方、まだキリストをよく知らない方はきっと読みづらいかもしれません。けれどもこのブログを読んで少しでもキリストに興味をもたれたらうれしいです。聖書を読んでみようかな?あるいは近くのカトリック教会へ行って、神父様と話してみたいな・・・と思われた方が一人でもいれば幸せです。キリストがあなたの心の扉を叩いたら、ためらわずに開けてください。キリストをあなたの心に入れてください。

2015年7月25日 (土)

「せせらぎ」から

 毎朝パソコンを開いて一番に見るのはホームページ「せせらぎ」です。この中の「毎日のみことば」を読みます。毎日その日の聖書の朗読と祈りのヒントが載っているからです。

 今日の祈りのヒントにはこう書かれていました。

人間は、

民を支配し

権力をふるう立場に立つことを望みますが、

イエスは、

皆の僕になり、自分の命をささげなさいと言います。

受ける前に与えるのです。

仕える者、愛する者、与える者になりましょう。

お手本はイエスです。

イエスのように考え、イエスのように話し、

イエスのように行うとき、

心は喜びと平安で満たされます。

2015年7月22日 (水)

聖マリア・マグダラ

 聖マグダラのマリアの記念日です。私の祖母の霊名でもあります。

Photo_6 聖マリア・マグダラ  エル・グレコ

 多くの画家がマグダラのマリアを描いています。私は以前ティツィアーノの作品が一番好きだったのですが、最近はこのグレコのマグダレーナが好きです。年と共に少しずつ好みも変わってくるのかもしれません。

 さてフランスのパリには有名なマドレーヌ寺院がありますが、マドレーヌとはマリア・マグダラのことです。ギリシャ神殿かと思うような外観、中の祭壇はご覧の通り豪華です。圧倒されますね。

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  マリア・マグダレナは罪人でしたがキリストに出会い自分の罪を心から悔いました。キリストに罪を赦され、その後はキリストに従う人たちと共に過ごしました。二度と同じ過ちを犯すことはありませんでした。

 彼女は私たちの希望です。どんなに罪を犯しても心から罪を悔い改めればキリストは必ず赦してくださることを教えてくれます。それどころかキリストと共に生きることさえできるのです。彼女は罪人の私たちもキリストと共に生きることができると教えてくれます。

2015年7月21日 (火)

若者の未来を暗くする

 政治については書かないようにしていたのですが、最近あまりにも世の中が暗い方へ向いているので一言だけ。

 人文科学を軽視して人間の尊厳や生きる目的、道徳や倫理を考えるより、強い国になるため兵器につながる自然科学、直接利益と結びつく学問だけを重視する今の政府の考え方は間違っています。「人文社会科学系廃止・再編」を言い出した文部科学省は人文科学の重要性が解っていません。「安保法案」然り。若者の未来を暗くする物です。

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2015年7月20日 (月)

常に善意で

 息子に言われました。「何事も善意で考えなければ・・・」と。同じことをトマさんも言っていました。確かに相手の言動を悪意でとらえるか、善意でとらえるかで全く違ってきます。最近は息子に教えられることばかり。嬉しいことです。


「トマさん祈りの部屋」より

・・・・・・善意の人は相手を善意で解釈し、悪意の人は良い事さえ悪く解釈します。邪推ですね。自分の思いが心に影を作り出します。相手に悪意があっても、善意の人はそれを自己改善の機会と考えて神に感謝して活用します。祈る人は、神をおそれ、自分自身の中に欠点を見つけ、責められる原因を発見します。・・・・・・・・・

いつでも、どんな時でも、自分のなかに責めるべきことを見つけるものです。それを神に謝り、戦う努力する、それ以外に出来ることはありません。相手のためになる時だけ、相手の誤りを訂正したり、助言したりします。それ以外は役に立たないので、沈黙が賢明です。自分で自分を責めることが良心の糾明です。それを怠ける人は、死ぬときに神ご自身から審判されることになります。■
*2015/05/27 城南カンファレンス・センター、年の黙想会「良心の糾明と神の審判」より

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2015年7月14日 (火)

両形態による拝領

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21 聖体を御血に浸して拝領する場合、司祭は聖体を取り、自分の脇に立つ奉仕者が持つカリスの中の御血にその一部を浸し、それを拝領者に示しながら、「キリストの御からだと御血」と言う。このとき、奉仕者は拝領者の口の下に拝領用の受け皿を添えることとする 37)。拝領者は「アーメン」と答えて聖体を口に受け、その場ですべてを拝領して席に戻る 38)。御血に浸した聖体を拝領者の手に授けることはできない 39)。

 


 ① 司祭は聖体を御血に浸し、それを示しながら「キリストの御からだと御血」と言う。

 ② 拝領者の口の下に拝領用の受け皿を添えること。

 目くじら立てて言うほどのことでもないのです。私にとってはどうでもよいことなのです。なぜなら、私は両形態はしないので。でも、もし絨毯に御血に浸したご聖体が落ちたら・・・どうしましょう・・・御血は絨毯にしみこんで拾うことはできませんよね。

 そして教令では両形態を行う機会についても言及しています。そもそも私達の教会は当てはまるのでしょうか?


両形態による拝領の機会

15 「ローマ・ミサ典礼書の総則」は、両形態による拝領の機会について以下のように定めている。

   「儀式書で示されている場合(たとえば、『成人のキリスト教入信式』、『叙階式』、『結婚式』などを参照。)のほかに、以下の者に許される。

   a) ミサの司式あるいは共同司式することができない司祭。

   b) 助祭、およびミサで何らかの役割を果たす他の人。

   c)  修道院ミサ、または『共同体のミサ』(Missa communitatis)(ここでいう、「共同体」とは、小教区共同体ではなく、修道院のような特定のグループをさす。「ローマ・ミサ典礼書の総則」114参照。)と呼ばれるミサにおける共同体の会員、神学生、黙想会に参加しているすべての人、あるいは霊的もしくは司牧的集いに参加するすべての人」 30)

16 さらに、同じ箇所では、「信者がよく養成され、聖体に対する汚聖の危険がまったくない場合、あるいは参加者が多数であることや別の理由によって式が混乱することが避けられる場合に、共同体をゆだねられた司祭が牧者としてふさわしいと判断したときは、いつでも両形態による拝領を許可する権限が教区司教には与えられている」 31)と述べられている。

 この規定に基づき、日本においては、司式司祭が上記の条件を満たしていると責任をもって判断した場合、両形態による拝領を認めることができることとする。


 余計な心配かもしれませんが、司祭を導くつもりは毛頭ありません。 シ──(-ω-)──ン

2015年7月13日 (月)

聖ヴィアンネに倣う ④

 『やとわれ羊飼いのふたたび言いたい放題』(酒井俊弘著)を読んでいて、私の言いたいことを酒井神父様が的確に書いておられ、嬉しくなりました。まさにこの通りです。聖ヴィアンネ(霊名日は8月4日)は自分自身はとても清貧な生活をしておられました。貧しい人や困っている人たちをいつも助けていました。そして徒歩でリオン市に出かけては自身の貧相さとは反対に自分のお金で教会のために良い品を買っていたそうです。では、酒井神父様の本から抜粋します。

・・・典礼、ことにミサに関係することに関しては、荘厳すぎるということはありえないでしょう。「キリストは、常に自分の教会とともに、特に典礼行為に現存している。キリストはミサの犠牲のうちに現存している。かつて十字架上で自身をささげた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として司祭のうちに現存するとともに、また特に両形態のもとに現存している」(第二バチカン公会議『典礼憲章』7)。もちろん、清貧を守り、質素であることは大切ですし、困っている人たちに寛大に施しをすることも教会の重要な役割です。しかし、神様に関わることに対して、まず寛大になるのが自然でしょう。全世界の主任司祭の守護の聖人である聖マリア・ヴィアンネがアルスの村に赴任して最初にしたのが、祭壇、祭器、祭服をできるだけ華麗にすることでした。彼自身は、粗食に耐え、厳しすぎるほどの清貧のうちに生きていましたが、ことこの点に関しては、ぜいたくの限りを尽くしました。・・・・・・

・・・・・結婚式に臨んで、花嫁が選びに選んだウエディングドレスに身を包み、花婿が花嫁に精一杯奮発した結婚指輪を贈るように、司祭は敬意をもって祭服を身に着け、愛情をもって祭具を扱うべきでしょう。・・・洗礼を受けた者は皆、共通司祭職にあずかっている・・・ですから同じ心がすべての信徒にも求められます。そしてその心は、ミサに参列する際の服装や振る舞い、ミサ中の動作や歌い方に反映されるべきです。こうして、司祭も信徒もともにキリストの心で、聖なるいけにえであるミサにふさわしく参加することができ、典礼の本質を具現化できるでしょう。(p.112~113)

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 ヴィース教会(ドイツ)

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ノートルダム大聖堂(モントリオール)

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 聖ヤコブ教会(ローテンブルグ)

 どれも美しい祭壇です。(写真はすべてGoogleから)

 偶像崇拝を禁じているイスラム教でも神様に祈る所はこんなに美しく装飾されています。

Msn

イランのモスク  (写真:Mohammad Reza Domri Ganji)

2015年7月12日 (日)

消えたブログ

 最近二つのブログが消えました。一つは本人の事情により閉じる知らせが最後のブログでありました。もう一つは突然の閉鎖です。何の前触れもなく・・・。ちょっと気になります。本人の意思とは関係なく閉じられたのではないかと。閉鎖する前に一言欲しいでした。

 ブログNを書いていた神父様は典礼に関しては間違ったことを教えていたわけでもなく、かえってきちんとしていて頼れる感じでした。この写真のように韓国のシスターは毎年神父様の教会の信者さんたちのために手作りカードを贈られています。温かみある神父様の人徳ですね。

Photo カトリックあきるの教会フェイスブックより

 私はブログをもっと続けてほしいでした。また再開されることを楽しみにしています。

2015年7月11日 (土)

聖ヴィアンネに倣う ③

  聖ヴィアンネについてもう少し触れてみたいと思います。

Photo_2  この本には聖ヴィアンネが話されたことが載っています。本の中から「地獄」の話を少しだけ。

地獄の存在を証明する必要はありません。わが主御自身「ラザロ、ラザロ」と叫んでいた悪い富豪の物語をされて、地獄について語られました。皆地獄があることをよく知っています。しかし決して地獄が存在しないかのように生活します。いくらかの金銭のために霊魂を売るのです。(139p.)

 今の教会であまり教えられることのなくなった「地獄」についてふれています。そして、こうも言っています。

「地獄に私共を落とすのは神様ではありません。私共が自ら罪を犯して、地獄に飛び込むのです」。(138p.)

「隣人の畑を耕して、自分の畑は荒れ放題にしている人を、皆さんは何と言うでしょうか。ところが、皆さんのやっていることは全くこの通りなのです。たえず他人の良心をせんさくし、それでいて、自分の良心は手入れせず、ほったらかしているのです。死がやってきた時、他人のことは実によく考え、自分のことはあまり考えなかったことをどんなに嘆くことでしょう。なぜなら、裁きを受けるのは自分であって、他人ではないからです・・・・・いつも、手が汚れていないかと見るように、自分のこと、自分の良心を見つめ、考えましょう」。(53p.)

「お祈りと秘跡とを打ち捨て、罪の中にうずくまっている悪い信者ほど、不幸なものはありません。しかし、善良な信者にとっては少しも苦痛はありません。神様を所有することは幸福中の幸福です。この幸福は他の一切のものを忘れさせてくれます」。(285p.)

 聖ヴィアンネの言う通り他人のことをあれこれ詮索するのではなく、自分の良心を見つめ、考えることが大切。そして主は本当に憐み深くその愛は尽きることがありませんから、自分の罪を心から悔いて主に赦しを請う人は必ず赦されるでしょう。悔い改めるのに遅すぎることはありません。そこには希望があります。

2015年7月10日 (金)

コーヒーの香り

 息子が帰省してから毎日、昼食後はエスプレッソコーヒー。仕舞い込んであったエスプレッソメーカーを出して、エスプレッソ用の粉で淹れるコーヒーは絶品です。大きなカップでがぶがぶ飲む薄いコーヒーと違い、エスプレッソはコクがあり香り豊か・・・これぞコーヒー!

 このコーヒーに牛乳を入れてカフェラッテ、一味違います。宣伝をするわけではないのですが、エスプレッソは癖になりますね。

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Photo_3  illy も美味しいけれどLavazza も美味しいですよ。

2015年7月 3日 (金)

聖ヴィアンネに倣う ② 

 外見は信心深くても、ごく些細な侮辱やほんにつまらない誹りにも腹を立てる人がいます。一人の危篤に陥った修道士がいました。・・・「私はいつも、他人から受けたすべての侮辱を忘れました。広い心をもって赦しました。神様も私を赦してくださるとおもいます」と。悪魔を狼狽させる手段は、私共に悪いことをした者に対して憎み心が起こったときに、すぐ彼等の改心のために祈ることです。・・・うわべだけの信者は何も忍耐しようとしません。あらゆる事に心を乱されるのです。棘のある言葉には棘のある言葉でむくいます。・・・悪魔は悪い信者はそのままそっとしておきます。どの悪魔もこのような信者にはかまいません。しかし、善業をなす信者に対しては数えきれない程のありとあらゆる誹りや侮辱をかりたてます。これは大きな功徳のもとです…。(199p.~200p.)

 外国で勉強している息子が夏休みで帰ってきました。息子に色々と話しているうちに、なぜか私の心に引っかかっていたことがすっと解決しました。そしてその晩、聖ヴィアンネの本をなにげなく開いた箇所が上記のところでした。「誹りや侮辱もお恵みである」ということが本当によくわかりました。苦痛から解放された気分です。これこそ聖霊のお恵みです。

Photo 私の心はこんな感じheart

聖トマ使徒(祝)

トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 (ヨハネ20;28~29)

 神を信じない人の多くはこう言います。「神なんて目に見えないものは信じられない」と。本当にそうでしょうか?カトリックの神は見えます。キリストは目に見える形でこの世に現存されています。そう、ご聖体です。

 ですからご聖体は大切にしなければなりません。聖櫃は隅に押しやるのではなく、中心に置く方が良いと思います。

Photo_3 キリストと聖トマ