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2021年11月

2021年11月30日 (火)

待降節に入って

 今日は聖アンデレ使徒の祝日です。待降節に入り教会の祭壇の前にはプレゼピオが飾られています。横にはアドヴェントキャンドル。降誕祭を待ち望む期待と喜び、しかしそれを迎える心の準備はなかなか進みません。

 キリストの教えに反していても聖体拝領をゆるし、一方ではコロナワクチンを受けない信者を「兄弟愛がない」と言って非難する。またあるごミサでは奉献文に勝手に言葉を付け加えたり、教会は何故こうなってしまったのでしょうか?キリストの教会のことを思うと本当に胸が痛みます。このままだとカトリック教会に分裂がおきるかもしれません。

 でも真の教会が無くなることはありません。なぜなら「教会はキリストのからだである」と言われている通りです。キリストは永遠!そしてキリストのからだに結ばれている私たちはキリストから命をいただいています。

 この待降節の間には特に教会のために祈らなければと思いました。

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2021年11月21日 (日)

王であるキリスト

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 今日は「王であるキリスト」の祭日です。今週の年間第34土曜日で典礼暦年は終わります。

 この一年間の信仰生活を振り返って見てどうでしたか?私はパウロの手紙を読む度に反省するばかりでした。それでも幸いなことに、どんな時にも主から離れることなく(主にしがみついて)生活できたことには感謝!また聖母マリア様に執り成しとご加護を願いながら毎日過ごすことができたことにも感謝!。パウロがコロサイの人たちに「あふれるばかりに感謝しなさい」と書いている通り、私も主にあふれんばかりの感謝をささげます。

 次の日曜日28日から新しい典礼暦年の始まりです。そして待降節第一主日なので、クリスマスに向けての心の準備も始まります。

2021年11月18日 (木)

主よ憐れみ給え

 アメリカからもヨーロッパからも良くないニュースが届きます。日本ではカトリック信者は少ないので問題にはなりませんが、特にアメリカでは深刻です。

 教会内に分裂を生み出そうとする人たちの攻撃は、信徒、神学生、司祭に向けられています。そして攻撃するのは教会外からではなく、一部の高位聖職者です。あれも禁止、これも禁止・・・勝手に禁止令を出して・・・本当に悲しいことです。クリスマスまでにはこの愚かな締め付けは止んで、どの教会でもすべての司祭がごミサを立てられ、すべてに信徒が与りたいごミサに与れることができますように。すべての人が喜びのうちにキリストのご降誕を祝うことができますように。

 今度の日曜日21日は「王であるキリスト」の祭日、そして次の28日は待降節第1主日になります。今の教会の現状を思うと主の助けを願わずにはいられません。分裂の種をまく人達に聖霊を送ってください。そして苦しんでいる人達に主の憐れみを!

 今日は「聖ペトロ教会と聖パウロ教会の献堂」です。聖ペトロと聖パウロのお墓の上に立てられた教会。この二つの教会で献堂の時からずっと正しく有効なごミサが立て続けられてきたのなら、そのごミサはこれからもずっと正しく有効なはずです。

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2021年11月 9日 (火)

ラテラン教会献堂の祝日

 

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 Basilica di San Giovanni in Laterano はローマの司教座聖堂です。教皇様はローマの司教でもあるので、毎年「御聖体の大祝日」にはここラテラン大聖堂で御ミサを捧げてから聖マリア大聖堂まで御聖体行列を行います。

 この大聖堂は洗礼者ヨハネと福音史家の使徒聖ヨハネの二人のヨハネに奉献した聖堂として聖ヨハネ大聖堂と呼ばれています。

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 ラテランといえば1215年に始まった第4回ラテラン公会議が頭に浮かびます。この公会議はラテラン教会の隣りのラテラン宮殿で開催されました。

 公会議は第二ヴァチカン公会議だけではありません。その前には20回もの公会議が開かれています。その20回の公会議を無視して、第二ヴァチカン公会議だけが公会議のように考えてはいけません。特に4大公会議と呼ばれているニケア公会議(325年)、コンスタンチノープル公会議(381年)、エフェソ公会議(431年)、カルケドン公会議(451年)はそれぞれにとても重要な事が話し合われました。そして19回目のトレント公会議も忘れてはいけませんね!

2021年11月 6日 (土)

聖書を読む

わたしが福音を宣べ伝えても、誇りにはなりません。そうしないではいられないからです。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしにとってわざわいです。

 コリント人への第一の手紙9章16節です。この箇所を読んでいて思いました。「福音を宣べ伝える」というところを「聖書を読む」と置き換えると、

「私が聖書を読んでも、誇りにはなりません。そうしないではいられないからです。もし聖書を読まないなら、わたしにとってわざわいです」。

 それは私の聖書を読む気持ちにピッタリだと気づきました。聖書は神が預言者や福音記者の手を通して書かれたものです。作者は神ご自身です。ですから、一般の本とはまったく違います。私にとって聖書はゆっくりと意味を噛み締めて黙想しながら読むものです。ですから今日の福音朗読個所は特に考えてしまいます。ルカによる福音書16章9節

わたしはあなたがたに言っておく。不正なマンモンを利用して、友人をつくりなさい。そうすれば、それが役にたたなくなったとき、あなたがたを永遠の住み家に迎え入れてくれるだろう。

 以前この箇所についての説教を聞いた記憶はあるのですが、内容を覚えていません。自分勝手に解釈してはいけないので、信頼できる人に訊いて説明してもらいます。

 ところで毎日の聖書の朗読個所はごミサで使う『聖書と典礼』の最後のページに書かれています。また「霊性センターせせらぎ」「日ごとの福音」各ホームページがあります。これらも上手に利用して、毎日無理せずにゆっくりと聖書を読む時間を作ってみてはいかがでしょうか。

 霊性センターせせらぎ https://seseragi-sc.jp/

 日ごとの福音 https://www.higotonofukuin.org/

2021年11月 1日 (月)

諸聖人の祭日

 今日は諸聖人の祭日です。私は今日のごミサで、すでに天国におられる聖人たちにまだ煉獄にいる人たちが早く天国へ行けるように執り成しを祈ります。


YouTube: Litaniae Sanctorum

(諸聖人の連願)

 諸聖人の連願についてフランシスコ教皇様は次のように話されています。

洗礼式の日には、諸聖人の連願が周囲に響きます。・・・また結婚の秘跡において婚約している男女が自らの愛を神にささげるとき、諸聖人への取り次ぎの祈りが再び、唱えられます。・・・そして司祭も、諸聖人に祈願した記憶を大切にしています。それは叙階式の典礼のもっとも感動的な瞬間です。受階者は顔を伏せて床に横たわります。そして司教の導きのもとに全会衆が諸聖人の取り次ぎを願い求めます。人は自分に課せられた使命の重みに押しつぶされそうになります。しかし、天の国全体が自分の味方であり、イエズスはつねに忠実なかたなので神の恵みが欠けることはないことを実感すれば、平静な心と励ましをもって踏み出すことができます。わたしたちは独りではありません。(2017年6月27日)

 また聖人についても次のように話しておられます。

カトリックの聖人たちはわたしたちにイエズス・キリストを思い起こさせてくれるのです。聖性は、わたしたちの生活がどんなに弱くて罪にまみれていても、その中でも花開くことを、聖人たちはわたしたちに伝えています、(2021年4月7日)88

 明日は死者の日です。亡くなったすべてのキリスト者を記念します。亡くなった人への祈りは亡くなった人を助ける(煉獄でその霊魂があらゆる罪の汚れから清められて、天国に入るのを助ける)だけでなく、亡くなった人が私たちのために執り成してもくださると教会は教えています。

 私は毎日亡くなった家族や先祖のために祈っていますが、明日は特に亡くなった教会のすべての兄弟姉妹のために祈りたいと思います。