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2017年11月

2017年11月30日 (木)

ミャンマー

 今月の26日夜ローマを発った教皇様はミャンマーで今日まで過ごしバングラデッシュへと移られます。

 ミャンマーは仏教国と言われますが、それでも国民の1.27%約66万人のカトリック信者がいます。日本の0.34%44万人よりずっと多いです。またキリスト教が伝えられたのは1511年で日本よりも38年も前でした。2011年には宣教500周年を迎えています。

 29日にヤンゴン市のチャイカッサン・グラウンドでの教皇様のごミサには約15万人の信者がミャンマー各地から集まり、ある女性は1600kmもの距離を列車や路上に寝たりしながら一週間かけて来たそうです。

 ミャンマーやバングラデッシュなどカトリック信徒の少ないところでは教皇様の訪問は大きな信仰の支えとなり希望の恵みとなります。

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2017年11月28日 (火)

お墓

 先週お墓参りに行きました。正直私はお墓参りをそれほど重要には考えていません。お彼岸やお盆そして死者の日にもお墓参りはしません。

 その理由は毎日亡くなった家族や先祖のため、また煉獄で主の特別ないつくしみを必要としている人達のために祈っているからです。お彼岸やお盆、命日の時だけ思い出してお墓の前で祈っているわけではないので。今までお墓に入っていない人たちは世界中にどれ位いるのでしょう。戦争で、原爆で、強制収容所等で亡くなりお墓に入っていない人達・・・。

 たまにしか行かないのでお墓には草や苔がはびこり墓誌の字もよく読めなくなっています。そこで今日はお天気も良く暖かいのでお墓の掃除に行ってきました。平日なので車も置けてゆっくりと掃除ができました。墓誌の苔を落として草を取り、隣の境の欠けたところにセメントをつめて、きれいになりました。古いお墓なのできれいといってもそれなりにです。そして作業はほとんど夫がしました。happy01

 〇〇家之墓でなくても合祀墓でもよいと思うのですが、どうするかは子どもたちに任せましょう。

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2017年11月26日 (日)

王であるキリスト(祭)~権威主義について

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  今日は教会カレンダー最後の日曜日、「王であるキリスト」の祭日です。いよいよ次の日曜日から待降節が始まります。

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 権威主義は一般には独裁主義や専制主義を連想させ、「権威」は人を服従させ強制させる力=悪ととらえられているようです。しかしフランシスコ教皇様はこの「権威」についてこう話しておられます。

 「他人が正しく、かくあるべきことを実践できるよう助けるために、よい模範を示すことから権威ある者は生まれる。権威は一つの助けであるのに対し、その使い方を誤ると、圧迫的になり、人の成長を妨げ、不信と敵意の空気や、腐敗を生んでしまう」と。(2017.11.5 教皇による祈りの集い)

 つまり権威を誤って使った結果が独裁や専制です。権威自体は決して悪いことではないはずです。権威を悪く使おうと思っている人は権威を悪ととらえるし、権威を良いことに使おうと思っている人は権威は良いことととらえます。キリストの権威は良いものでしょう。教皇ヨハネ23世を見てください。私たちに良い模範を示された権威ある方です。

 権威を持っている人はそれを正しく使い、まわりの人達はそれを正しく理解して協力することが必要だと思います。権威を表すミトラや杖、祭服などを権威の象徴として毛嫌いするのも的外れなことです。

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教皇ヨハネ23世

2017年11月24日 (金)

迫害について

 今日のごミサの最後に教会迫害についての話がありました。祝福前でしたので短い話しでしたがこういう話こそお説教の時にゆっくりと聞きたいでした。

 平和な国にいると迫害は過去の歴史のひとこまとしか思えない人もいます。でも現に今教会迫害の国で苦しんでいる人達がいます。ベトナムや中国、北朝鮮等々。ロシアやポーランドなど東ヨーロッパの国々もソ連の共産主義に支配されていたころは迫害されていました。ただ今日聞いたベトナム教会のヴァチカンに対する態度はポーランドのそれとは少し違うようです。「従順」という言葉で片付けていましたが・・・。

 丁度明後日は「王であるキリスト」その次の日曜日から待降節にはいります。クリスマスを迎える準備の一つとして迫害されている教会のために毎日祈りましょう。すべての教会がキリストの降誕を祝う喜びの鐘を鳴らすことができますように。

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Cathedralhochiminhcity

2017年11月21日 (火)

聖マリアの奉献(記)

 今日はマリア様の奉献記念日。朝からマリア様について色々と想っています。

 お告げの祈りにある通り、「私は主のはしため、おことば通りになりますように」とこたえるマリア様。小さい頃から育まれた豊かな信仰心が自然とそう答えさせたのでしょう。何よりも主を信頼する心、いつもそういう心でいられる・・・私もそうありたい。

 不安になったり余計な心配をしたり、疑ったり怒ったり不満に思ったり・・・主を信頼していれば何もそのようなことで心を煩わすことはないのに。主への信頼が弱くなるのは祈りが足りないことと正比例。

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聖アンナと聖マリア

2017年11月18日 (土)

黄金千貫

 唐芋(さつま芋)はブームの品種ばかりが店頭に並んでいます。指宿の道の駅では「安納芋」ばかり。JAやCOOPでも安納芋が半分以上を占めて、残りは「紅はるか」や「紅あずま」、「シルクスイート」など。

 昔は唐芋といえば黄金千貫でした。そう、焼酎の原料です。品種改良が進みさつま芋の甘さはどんどん増すばかり。今では黄金千貫は人気は無く、ほとんどが焼酎の原料として作られるだけとなりました。

 ところが偶然に「黄金千貫」を道の駅で見つけました。2袋しかなかったので2つとも買ってしまいました。お芋は大好きなのでどの品種でも食べますが、甘~い安納芋よりは甘くはないけれど香りが良い黄金千貫が好みです。お芋の天ぷらには黄金千貫が一番!

Dscn2190黄金千貫と銀杏

2017年11月14日 (火)

ミサは退屈?

CNNの記事からフランシスコ教皇様の話しとして、

・・・聖職者に対し「ミサでは心を高めるべきで撮影のために携帯電話を掲げないことを信者に教示すべきだ」と強調した。

また、信者だけでなく司教らも同じことをしているとして、「ミサはショーではない」といさめた。

「ミサは退屈」との不平については「神がそこにいる。神は退屈なのか?」と反論。さらに、一部の子どもの十字架を切って祈る方法がだらしないとし、適切な礼拝の方法を教えるべきだと主張した。

 ついに教皇様も我慢できなかったのでしょう。教皇様の気持ちよ~くわかります。私も以前「ミサは退屈だからミサを楽しくするにはどうしたらよいか?」などと本気で尋ねた人(聖職者)がいたのを知っています。「ミサが退屈だから教会を離れる人が増えた」とまで言っていたようです。でも以前のラテン語での長~いミサの時には教会を離れる人は今よりずっと少なかったと思います。つまり昔はミサの意味を皆はよく教えてもらい理解していたけれど、今は教えてもらっていないということかもしれません。

 教皇様が話されたのは11月8日水曜日の一般謁見の時です。その時のyou tubeを載せます。↓


YouTube: 2017.11.08 - General Audience

2017年11月13日 (月)

気になる祝福

 いつの頃からでしょうか、ごミサの聖体拝領の時に祝福が始まったのは・・・。ヴァチカンのごミサでは今も昔も無いので日本やアメリカなど数か国の特有なことかもしれません。

 私は聖体拝領の時の祝福は必要ないと思います。その理由はごミサの最後にみんな(信者もそうでない人もすべて)祝福をいただいているから。司祭はごミサの最後に「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように」と言い、私たちは「アーメン」とこたえてます。

 理由があってご聖体をいただかない人に、しつこく祝福を受けに行くように勧めている方がおられます。よい心で勧めているのでしょうが本人が拒否しているのに何度も勧められればかえって目立ってしまい本人にとっては良い気持ちはしないでしょう。未信者の方が遠慮されている場合と違い、聖体拝領の意味をよくわかっている信者さんが聖体拝領をしないのには理由があるからで、そのことを考慮してそっとしておいてあげるのが良いのではないでしょうか。とにかくごミサの最後には祝福があるのですから。

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ごミサの最後に皆を祝福される教皇様

2017年11月11日 (土)

良く思われたい

「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」(ルカ16:15

 

 今日の福音でキリストがファリサイ派の人達に言った箇所です。ドキッとしますね。私たちも他人に良く思われたいから良いことをする。つい自慢してしまう・・・。誰にでもある心の驕りです。悪いことではなく良いことをしたのに主は喜ばれない。私たちが陥りやすい過ちです。気をつけなければ・・・catface 

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写真は「.r」より 本文とは関係もありません。

2017年11月 9日 (木)

ラテラン教会の献堂(祝)

 

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 今日はラテラン教会の献堂の祝日です。ラテラン教会と言ってもピンとこない方もおられるでしょう。

 ラテラン教会とはローマ司教座教会です。教皇様はローマ司教座の司教でもあります。ですからラテラン教会は「すべての教会の母」と呼ばれているのです。

 また今までに21回開かれた公会議の中で第9回から第12回までの4回の公会議はラテラン公会議としてここで開催されました。一番新しい第二ヴァチカン公会議しか知らずに、それだけが正しくてそれ以前の公会議は古くてもう無効だと思っている方がいるようですがとんでもない誤りです。すべての公会議は正しく有効です(東方教会は多くても第7回公会議までしか認めていませんが)。

 キリストは使徒たちの中からペトロを特別に選びました。そしてペトロはローマでキリストの代理者・首位権者として教座を定めました。ですからローマは使徒座と呼ばれます。ローマ教皇様は使徒たちの頭である聖ペトロの後継者です。つまり教皇様には教会全体を司牧・統治する全権があたえられているのです。

 ラテラン教会献堂を祝日とする重要性がわかっていただけたと思います。

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2017年11月 4日 (土)

子育て

[オプスデイ:『生きるための教育』~子育て~]より抜粋

子育てという仕事は、結局のところ、子供たちが善いことを「したいと思う」ように育てるということです。

・・・ 子供たちがあらゆるものを身に着け、彼らのわがままに屈して望みを叶えることなど全く必要のないことです。反対に、手放すこと、待つことを学ばせるべきです。事実、人生には、待つことのできるものが数多くあり、また必然的に待つべきことが多いものではありませんか。聖ホセマリアは、このことをまたとない明確さで、こう語っています。「お金に寛大すぎてはなりません(…)。子供たちに、つつましい生き方、少しスパルタ式の生き方を学ばせることです。つまり、キリスト者としての生き方ができるようにすることです。難しいことですが、勇気を出さなければなりません。つつましく生きるよう躾けることの大切さを納得しなさい。さもないと、元も子もなくしてしまいます」。・・・

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 ・・・希望は両親にとって極めて必要な徳です。子供の教育は大きな喜びであると同時に、決して小さいとは言えない悩みや心配が伴います。いずれにせよ、失敗したという思いをいつまでも引きずってはなりません。逆にいつも楽観的に、信仰と希望を持ってやり直すことができるのです。努力が実らないことはありません。たとえ、なかなか目標に達しないとか、結果が表れないとか思えても、必ず実りはあるものです。父親母親であることに終わりはありません。子供には、大きくなり独立した後でも両親の祈りと愛情がいつも必要です。聖マリアはカルワリオでイエスを一人きりにはなさらなかったのです。最後まで献身し犠牲を捧げられた聖母の模範は、神が両親に託されたこの素晴らしい務めに光を照らします。生きるための教育、それは愛の仕事です。(Opus Dei H.P. 2017.9.15)

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Bologna_2幼子のように信頼してすべてをゆだねる(Osservatore Romano[Bologna])


 「幼子のようにならなければ・・・」というイエズス様のことばを文字通り受け取って、幼い子が自分の我を通そうとしてわがままを言ったり、自由勝手気ままに行動していることを良いことのように見ている放任主義の大人達がいますが、それは間違いでしょう。「幼子のように」という意味をはきちがえていると思います。親を信頼しきっている子どもと同じように私たちも父である神を信頼しきって、親を心から信頼する子どものような飾らない素直な心でおごり高ぶることのないように、それがイエズス様の言っている「幼子のように」という意味だと思います。

2017年11月 2日 (木)

死者の日

「わたしの父のみ旨とは、子を見て信じる人々にみな永遠の命を受けさせ、終わりの日に彼らを復活させることである 」。 (ヨハネ6:40)

 昨日の「諸聖人の祭日」に続いて今日は「死者の日」です。「諸聖人の日」が「死者の日」と違い祭日なのは、聖人たちはすでに皆天国にいるからですね。ですから「死者の日」の今日は霊魂の救いを必要としている亡くなった人達のために祈らなければなりません。

 亡くなった私や夫の家族また先祖の人達はもちろんのこと、今煉獄にいるすべての人のために祈ります。

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2017年11月 1日 (水)

優しいにゃん!

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前教皇ベネディクト16世~好いですね!