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2017年6月14日 (水)

何でも差別・・・ではないでしょう

 郡山司教様のブログにおもしろいことが書いてありました。カトリック婦人連合を女性連盟と改名した理由についてです。

 改名した人たちの理由に司教様も失笑したとか。読んでみて私もちょっとあきれました。キリストの教えを知っているカトリックの人がこんなことを言うとは。世のフェミニストと同じ。

 婦人の「婦」は女+箒(ほうき)、箒を手にして掃除をする人という差別的イメージを与えるのでふさわしくないというもの。しかし司教様が調べたところ本来の意味は「箒は掃除のためではなく、酒を含ませて廟(祭儀を行うところ)を清めるためのもの」で、婦とはその役を担っている女性のことだそうで、「婦人」は差別どころか女性の地位と役割を明確に表すものとか。

 私はそもそもカトリックの人が女性が箒をもって掃除するすることを差別的なこととしてとらえていること自体理解できません。箒で掃除することは立派な仕事です。会社や学校、病院等で働く女性の仕事だけに価値があるのでしょうか?フェミニストたちは何でも「差別差別」と声高に言います。それは彼女たち自身が一番女性を貶めていることに気付いていないのでしょうか。

 カトリックの中に「女性の司祭がいないのは女性差別」と騒ぐシスターや女性信徒がいます。女性の司祭がいないのは差別ではありません。理由は別です。そもそもカトリックの中に女性差別はありません。キリストは差別そのものを否定しています。それどころ女性の地位を高めました。神の母となった聖母マリア、キリストが復活後に初めて姿を現したのはマグダラのマリア。サマリアの女性とキリスト等々。

 話がずれてしまいました。要するに「婦人」でいいのです。婦人会が箒をもって掃除をしてお茶の準備や片付けをしても差別ではないのです。何でも差別と言うのはやめましょう。

Photoキリストとサマリアの女性