« あるカトリック教会 | メイン | 「教皇講話集」から ゆるしの秘跡 »

2015年7月30日 (木)

「教皇講話集」から エウカリスチア

 「エウカリスチア」つまり「ご聖体と感謝の祭儀」ごミサです。神学的なことはさておき、教皇様はこのエウカリスチアがいかに大切かを強調されています。

・・・・・感謝の祭儀は単なる祝宴以上のものです。それは、救いの神秘の中心である、イエスの過越しの記念したものです。「記念」とは、単に思い起こすことでも、単純な想起でもありません。それは、わたしたちがこの秘跡を祝うごとに、キリストの受難と死と復活の神秘にあずかることです。エウカリスチアは神の救いのわざの頂点をなします。・・・・・わたしたちは、主が聖体によって与えてくださったたまもののゆえに、どれほど主に感謝しても感謝しきれません。それはまことに偉大なたまものです。だから、主日にミサに行くことがきわめて大切なのです。ミサに行くのは祈るためだけではなく、聖体を拝領するためです。このパンは、イエス・キリストのからだであり、わたしたちを救い、ゆるし、御父と一つに結びつけるのです。わたしたちは主日ごとにミサに行きます。それは、主日はまさに主が復活された日だからです。だから主日はわたしたちにとってきわめて大切なのです。わたしたちは聖体によって、自分たちが教会に属するもの、神の民に属するもの、神のからだに属するもの、イエス・キリストに属するものであることを感じます。・・・・・子どもが十分よく初聖体の準備をすること、それもすべての子どもがそうすることが大切です。初聖体は、洗礼と堅信の後、イエス・キリストにしっかりと結ばれるための第一歩だからです。

 教皇様の「エウカリスチアの秘跡」について厳しい言葉が続きます。

・・・・・主日のミサに行き、聖体をどのように生きているか。それは単なる祭儀、固定した伝統、自己を見つめ、これでいいのだと正当化する機会なのか。それとも、それ以上のものなのか。・・・・・聖体をどのように生きているかを判断するために、きわめて具体的なしるしがあります。第一の手掛かりは、他者に対するわたしたちの見方、考え方です。・・・・・わたしたちは皆、自らに問わなければなりません。ミサに行くことで、それをどのように生きているだろうか。こうした問題を抱えた人(貧しい人、病気の人、のけ者にされた人、社会的困難・自然災害にあった人・経済危機に苦しむ人)を助け、彼らに寄り添い、彼らのために祈っているだろうか。それとも少し無関心になっていないか。・・・・・第二の手掛かりはきわめて重要で、それは自分がゆるされたと感じる恵み、そしてゆるそうとする恵みです。・・・・・神のあわれみを必要としていることを感じず、自分が罪人だと思わない人はミサに行かないほうがましです。わたしたちがミサに行くのは、自分が罪人だからです。そして、神のゆるしを受け、イエスのあがないとゆるしにあずかりたいからです。ミサの初めに唱える「告白します」は、単なる「形式だけ」のものではなく、まことの悔い改めの行為です。・・・・・感謝の祭儀はわたしたちが行うものではないことをつねに心に留めなければなりません。それは、わたしたちがイエスのことばとわざを記念することではありません。そうではありません。これは、まさにキリストのわざなのです。感謝の祭儀の中で働くかた、祭壇上におられるかたは、キリストです。感謝の祭儀はキリストの与えるたまものです。キリストが、ご自身を現存させ、ご自分の周りにわたしたちを集め、ご自分のことばといのちでわたしたちを養ってくださるのです。・・・・・「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6・54)。信仰と、祈りと、ゆるしと、悔い改めと、共同体の喜びと、貧しい人々、多くの兄弟姉妹の必要に対する気遣いの精神をもって、聖体を生きましょう。(p.36~40)

 なんとなく、日曜日だから、いつものように・・・という安易な気持ちでミサの与ってはいけませんね。そして教皇様は「自分が罪人だと思わない人はミサに行かない方がましです」とまではっきり言っています。厳しい言葉ですがこれは本当です。

Photo フェイスブック:聖ホセマリアより