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2015年1月14日 (水)

「表現の自由」とは?

本当に「私はシャルリ」でいいの?西洋とイスラムの「対立」をあおることにならないか

 イギリス在住の木村正人記者が書いていた記事が目にとまりました。私も同じ思いでした。今は「一歩立ち止まってよく考えて」と言える雰囲気ではありません。かつてのアメリカがイラク戦争へ進んでいった時と同じです。少しでも反対の声を上げると「裏切り者」と言われ何も意見を言えない雰囲気です。

 今回特に私がおかしいと思ったのは「表現の自由=何でも好き勝手に言ってよい=正義」という考えです。相手を不愉快にさせる、傷つける、笑いのネタにしておとしめる・・・そのようなことが本当に「表現の自由」と言えるでしょうか?それは「いじめ」と全く同じです。いじめた方は必ずこう言います。「ただのジョークさ、笑いを理解できないやつだな」と。

 自分の家族を馬鹿にされたり、笑い話で侮辱されて一緒にニコニコできる人がいますか?ましてや自分が一番大切に思っている人についてそうされたらどうでしょう。キリスト教徒はキリストや聖母を馬鹿にされ、侮辱されたらどんな気持ちになるのか考えてみましたか?もちろん無神論者は何も感じないでしょう。彼らはキリスト、聖母、教皇、モーゼ、マホメッド、お釈迦様、だれでも笑い話の対象とするし、それが「表現の自由」だと叫ぶでしょう。彼らはキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒の対立を望んであおっているようにしか思えません。宗教を憎む彼らは「宗教戦争」を作りだし、宗教同士お互いが傷つけ合うことを望んでいるのではないでしょうか。

 下記に木村氏の記事を抜粋しました。

・・・・・・「表現の自由」を攻撃することは許されない。ましてやテロは絶対に許してはならない。しかし、シャルリエブド紙の風刺画には、イスラムに対する理解を深めるより、誤解と偏見を広げる効果もあったことは否定できない。

イスラム系移民はTVで「私たちはムハンマドを親よりも大切にしなさいと言われて育ってきた。それを侮辱されたときの気持ちも理解してほしい」と悲しそうな表情を浮かべた。

ムハンマドの風刺画はどうしても西洋とイスラムの間に分断線を引いてしまう。「私はシャルリ」というスローガンにイスラム系移民が果たして、ためらいも覚えずに共感できるのだろうか。

例えば、黒人がバナナをくわえて木から落ちる風刺画は許されない。ユダヤ人がカネを数える風刺画は許されない。偏見が黒人差別やユダヤ人迫害を助長した歴史があるからだ。風刺画による「表現の自由」にも自ずと限度がある。

英国では人種や民族、宗教、障害などに起因するヘイトクライム(嫌悪犯罪)として(1)肉体への危害(2)ののしりや罵倒(3)つば吐きや侮辱的な仕草(4)脅かし、脅迫、苦痛を与えたりするなどの行為(5)学校や職場でのいじめ(6)放火(7)盗難や器物損壊(8)隣人とのもめごと――を取り締まり対象にしている。

インターネット上でもテロ対策インターネット・ユニット(CTIRU)が(1)人種・宗教的暴力を呼びかけるスピーチやエッセイ(2)加害者を称えるメッセージ付き暴力ビデオ(3)テロや暴力過激主義を呼びかけるチャット会議(4)宗教や民族への嫌悪をあおるメッセージ(5)爆弾製造の指示書――に監視の目を光らせ、違反があれば即座に閉鎖している。・・・・・(記事 :木村正人 2015年1月11日)  

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