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2015年1月14日 (水)

「救われる」とは?

一昨年の記事ですが誤解している人が多いので取り上げました。

(CNN) ローマ法王フランシスコが説教の中で、無神論者の罪の救済に言及して注目を浴びている。ローマ法王庁は23日、「罪の救済」の解釈について補足する談話を発表した。

フランシスコ法王は22日午前のミサで信者を前に、「主はキリストの血によって、我々すべての罪を救った。カトリック信者のみならず、すべての人を」「無神論者さえも」と語った。さらに「我々は互いに善行を行わなければならない。無神論者であっても善行を行いなさい」と続けている。

この発言について、信仰にとらわれない倫理観を説いている米団体のロイ・スペクハルト氏は、「世界の宗教的、哲学的多様性に関する法王の見解は広がっている」「人文主義者は以前から、人は神がいなくても善良になれると訴えてきたが、その言葉をカトリック教会の指導者から聞いて大きく心を打たれた」と歓迎。ほかの宗教指導者たちもこうした見解を示せば、無神論者などに対する差別の解消につながるだろうと期待を示した。

ネット上でも法王の発言は注目され、無神論者や不可知論者でも天国に行けるのかと問いかける声が相次いだ。

これについてローマ法王庁の報道官は23日に発表した談話で、「すべての男女は、いかなる状況にあっても救われることができる。たとえキリスト教徒でなくても、この精神の救済行為に応えることはできる。生まれながらに罪深い存在であるというだけで、救済の対象にならない人物は誰もいない」と指摘した。

報道官は同時に、22日の法王の発言について、「救済の本質についての神学的論争をあおる意図はなかった」と述べている。(2013年5月24日CNNニュース)

 

 おそらく教皇様は「救った」ではなく「贖われた」と言われたのではないでしょうか。

 拙い私の理解では昔から今に至るまでキリストは例外なくすべての人の罪を贖いました。しかし神を認め、キリストを受け入れて、努力してその教えに従って生きるならばその人は救われる可能性がありますが神の救いを頑固に拒否して善く生きる努力をしない人は救われないであろう、とカテキズムで教えられました。

 そうでなければ私たちは洗礼を受ける意味はないし、ましてやカトリックの信仰を信じる必要も無くなります。まわりの人達に優しく、家族仲良く、ボランティアに精出して、犯罪に手を染めるようなことをせずに善く生きれば十分でしょう。

 教皇様が「救われる」という表現を使っているので誤解されるのではないでしょうか。おそらく訳の間違いで教皇様は「救われる」ではなく「皆の罪が贖われた」と言いたかったのだと思います。訳は正確にしてほしいですね。私と同じように外国語のわからない人達にとっては大きな問題です。CNNやBBCは意図的に訳を操作しているのでしょうか?センセーショナルな話題にするために・・・。

 神学を勉強した人なら教皇様の発言を深く読み取れるでしょうが、そうでない一般の人や、カトリックを知らない人達には誤解されるでしょう。何故洗礼を受けてカトリックの信徒になる必要があるのか、宣教師でもある教皇様が一番解っておられるはずです。神は例外なく皆を天国に呼んで救いたいのです。しかしこの神の招きに答えなければ天国には入れないのだと思います。

Cimg5134_2 K教会クリスマスの祭壇 (幼子キリストが私たちに呼びかけています)

 無神論者もキリストによって罪は贖われました。また罪を心から悔い改めれば神は赦してくださるでしょう。神は無神論者も救われるように呼びかけておられます。しかし神の呼びかけ(神・キリストを受け入れてその教えに従って生きる)に答えなければなりません。

Photo 洗礼 (写真:Googleより)